プロフィール

nesupa

Author:nesupa
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

カレンダー(月別)

09 ≪│2017/10│≫ 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ALS患者の記録

ALS筋萎縮性側索硬化症患者の記録、私の先輩です。
つい先日インターネットで連絡できるようになり、(MLに参加なされたので)詳しい様子が分かりました。
記録のため又読んでもらいたくてこの場に転載します。
--------
私は平成7年9月、55歳8ヶ月のとき発病した。初期症状は左腕が上がりにくいだけで
、肩の痛みは無かった。最初の病院の診断は五十肩。アイロン体操で肩を使いなさいとい
う指示だった。まじめに取り組み1ケ月が過ぎても好転しない。次に紹介された整形外科
では首のレントゲン写真を撮り、頚椎が圧迫されているので、牽引をしましょうといわれ
た。2ヶ月たっても好転せず、たまたま3年生を担当し文系には地学、理系には化学を教
えていたので大学入試のセンター試験、それに続く二次試験と仕事も忙しくなったので、
通院を中止した。生徒が二次試験に出発した2月下旬、次に訪ねた整形外科では簡単な問
診と手足の動きを診て、神経内科医に紹介状を書いてくれた。筋電図検査ではALSに特
徴的な針状の波形が記録され、頚椎のMRIでは異常は無かった。最終的に平成8年3月
上旬ALS筋萎縮性側索硬化症と病名が決まった。すぐ校長に報告した。人事異動はすで
に決まり、そのまま勤務することになった。それは結果的に良かった。もし転勤して、新
しい学校で僕、病気ですと言うわけにもいかないと思う。神経内科という言葉も筋萎縮性
側索硬化症という病名もはじめて聞く言葉だった。用意してもらった病気のことを書いた
医学専門書のコピーを読み、念のため医者になっている教え子に電話したら、電話口の向
こうで絶句したようすだったので、何も聞けず電話を切った。
平成8年度の新学期が始まった。授業の持ち時間は平年の半分の9時間。この1年間の病
状の進行は左手、左足、右手の順に力が入らなくなった。右足は3年間力か入った。10
月にはチョークを持つ右手が上がらなくなり黒板の下半分にしか板書できなくなり、まも
なく11月にはチョークを握る力も弱くなり板書できなくなった。幸い声は今までどうり
出たので説明には困らなかった。
通勤は自宅から職場の高校までの30kmをマイカーを運転してい
た。この状態で平成8年度は終わった。
平成9年度が始まった。4月22日には手がハンドルに上がらなくなり、電車通勤になっ
た。自宅から駅、駅から職場まではタクシーでの移動になった。1ヶ月過ぎたころ、まず
隣家の人が気づき朝駅まで送って貰うことになった。帰宅のときもどうぞと言われたが、
時間が不規則なのでそれは辞退した。職場の同僚も気づき、朝駅まで迎えに来てくれ、午
後には駅まで送ってくれた。
授業は口頭で説明し、1時間の授業のまとめのプリントを渡してノートさせた。そのまと
めのプリントはワープロで作っていたが手がキーボードの上に浮かないので、腕を三角巾
で支え身体を前後左右に動かしてキーボードをたたいていた。試験の答案の採点も同じ方
法でやっていた。
忘れもしない10月20日帰りの電車のシートから立ち上がれなくなり、翌日はタクシー
で学校に行き校長に休職を申し出た。校長はそういう事態を予想して、先のことを考えて
くれていた。朝僕を自宅まで迎えに来て学校まで連れてくる係り、午後僕を自宅まで送り
届ける係りを決めてくれていた。有難かった。感謝あるのみ。それから退職する3月まで
通勤の心配は無くなった。
手の衰えと足の衰えはひどく、高さ15cmの教壇が上がれなくなり厚さ7.5cmの箱
を作ってもらい教壇に上がれた。板書ができなくなってからの授業スタイルは、口頭によ
る説明とまとめのノート記帳それと時々行う小テスト。小テストの成績が良くない生徒は
放課後口頭試問を行っていた。これが生徒一人一人を理解するのに大いに役立った。3月
を迎えお別れのときが来た。部活動の大切さを話し、病気の2年間のお礼を述べて36年
間の教師生活を終わった。定年まで2年残しての退職だったが悔いは無かった。
平成10年4月自宅療養が始まった。この日のために広さ18畳の病室、その隣に洗面所
トイレ浴室を直線状に配置して、天井走行リフトを取り付けた療養室を1500万円を掛
け増築して備えた。一日の生活のパターンは朝ヘルパーさんに電動車椅子に乗せてもらい
、夕方ベッドに戻るものだった。つらかったのはお尻の痛さ。クッションをエヤーマット
に変えたら解消した。歩けなくなったらリフトでトイレへ、でも下着の上げ下ろしは出来
ないので下着の縫い目のお尻の部分を解いておいた。入浴はヘルパーさんの助けを借りて
いたが、歩けなくなったらベッドから直接リフトで浴槽へ。浴槽から椅子に移り身体を洗
う。再び浴槽へ、椅子に移り身体を拭いて吊り具を代えてベッドへもどる。本人もヘルパ
ーさんも楽になった。排尿は尿器、排便はゴム便器で済ませた。そのゴム便器をお尻の下
に入れるのは一人ではたいへんだけど、天井走行リフトに輪を取り付け膝を入れ、リフト
で揚げると楽に済ませることが出来た。
10ヶ月経った平成11年1月誤嚥による肺炎で国立病院に入院して胃漏を作った。
気管切開をして人工呼吸器をつけることを勧められたが、自発呼吸は十分だったし、声を
失うのが怖く、断った。3月の終わりには退院し、自宅療養に戻った。病院ではなんとも
なかったのに、経管栄養を入れると脈拍が120ほどに増えて呼吸回数が増えるが、体が
それに対応できず息苦しい思いに、毎食後1~1.5時間耐えていた。4月中旬西病院に入院し、6月下旬気管切開をして人工呼吸器をつけた。息苦しさは消え楽になりまし
た。しばらくは声も出なくて意思伝達に苦労したが、1ヶ月少し経ったころかすかではあ
るが聞き取れる声が出るようになり、以後平成15年までの4.5年ほど続いた。
人工呼吸器をつけ自宅療養が再び始まった。痰の吸引も気管切開したところから直接吸引
チューブを気管に入れられるので楽になりました。入浴は人工呼吸器をつけたので自宅の
浴室は使えず、専門業者に依頼した。浴槽・お湯持参で看護師を含む3人で入れてくれる
。費用は12500円で週に1回入ると1ヶ月で5万円。自己負担は5000円。平成1
4年1月それまで一人で看病してきた妻が、看病の負担で身体を壊し看病できなくなった
ので,国立病院に入院した。妻の病状は好転せず、平成17年10月他界した。
平成16年ころから声が出なくなり意思伝達は瞼の瞬きに頼った。すなわち、五十音図の
あ行~わ行に1~10の数字を、あ~おに1~5の数字を当て、瞬きの回数で、まず行を
決め、次の瞬きの回数で、文字を決める。時間はかかるがこれしか方法はなかった。肉親
や看護師には分かるが、見舞いに来た人にはわからず困った。瞬きの回数が増えると疲労
を感じるようになったのは平成17年になってからだった。
その状態を1年近く続けた平成17年10月唇で制御できる携帯型意思伝達装置レッツチ
ャットに出会い、意思伝達が格段に楽になった。プリンターにつなぐと手紙が書けるので
、平成11年以降出してない手紙を上司、友人、教え子に書いた。レッツチャットは漢字
変換が出来ないので平仮名だけの文章になり読みづらいのが難点である。平成18年1月
8病棟に移った。ここではインターネット用の電話線が引かれており、テレビは自分のを
持ち込めるのでパソコンの画面を写せるテレビ、日立のノートパソコン伝の心、プリンタ
ー、およびレッツチャットを、ベッドの足元に立体的に配置し、唇で制御できるようにし
た。手紙はパソコンのワープロ機能を使えば漢字かな混じりの文章になり読みやすくなっ
た。9月15日にはインターネットに繋がり、メールの交換、検索で調べたいことが分か
り大変満足している。
  神経医療センター8病棟患者:M・T
スポンサーサイト

<< サウナにフォンジュ | ホーム | 全文転載ですが・・・ >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 BLOG TOP 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。