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『千と千尋の神隠し』 (一)

以前ブログに転載したものを又載せます。
全文転載はいけない事とは知りつつ、URLを辿っても探しづらいので敢えて全文を転載します。

 この映画評論を読んで、映画好き若しくは評論化の皆さんはこれほど映画を深く見ているのだと恐ろしく感じ、これまで映画を楽しんできた身としては恥じ入ること多しという気分になった。でも私はこんな深読みすることは無いでしょう。デキナイ。

三回に分けて転載します。

http://www.jcj.gr.jp/cinema/cinema_200110.html

日本最高のヒットは嬉しい(2001.10.19)
描かれたものは最高でない
『千と千尋の神隠し』の功罪


『タイタニック』抜く興行成績
 スタジオ・ジブリ製作、宮崎駿監督の新作アニメ『千と千尋の神隠し』は、7月20日の封切日から約2ヶ月で、1687万人を動員し、3年前に、米映画『タイタニック』が、1年以上をかけて動員した観客数1680万人を、抜き去ってしまった。勿論、史上最高にヒットした邦画『もののけ姫』の興行成績は、観客、興収とも早くに抜いているし、邦洋含めて最高の『タイタニック』の興収260億円を抜くのも、時間の問題だという。
 このアニメーション映画が、どうしてそんなにヒットしたのか、老若男女を問わず、心を捉えたこの映画の中身とは、一体何なのか。ここまで社会現象化すると、JCJとしても、本欄でとりあげないわけには、行かなくなった。


失敗作は原則沈黙なのだが・・
 私は、この映画の後半の、人物造形、物語展開がすべてステロタイプなので、『もののけ姫』に比べると、浅薄な失敗作と断じ、本欄でとりあげるのを止めていた。私は、『プライド 運命の瞬間』『ムルデカ』『パール・ハーバー』などのように、存在すること自体が困る映画は、遠慮なく批判させて貰っているが、目的も意図も正しいが、力足らずか意あまってか、完全な作品とはならなかった、いわゆる失敗作は、批判せずに沈黙することにしている。なぜなら、映画は、小説のように、紙と鉛筆があれば書けるというものではなく、多額の資金を必要とし、失敗作といえども、不評で観客が来ず、制作費の回収すら出来なくなると、製作スタッフは、失敗をテコに捲土重来を期すことすら、難しくなるからである。しかし、『千と千尋の神隠し』については、大ヒットで制作費を十分に回収し、次作を作る余力すら生まれたであろうから、きっちりと中身を検証しておきたいと思う。


小学高学年用という意図
 「小学校高学年ぐらいの女の子が、ワクワクしながら見られる映画を、私はまだ作っていなかった。それぐらいの子が、親を離れ、自分の力で生きる術を見出して行く、そんな映画を作りたかった。」宮崎駿は、製作意図を、こんな風に言っている。事実、冒頭から中盤までのこの映画の展開は、実にワクワクしながら、見ることができる。女の子にどんな困難が待ち受け、女の子がどんな運命に翻弄されるのか、見事なサスペンスの中で、女の子に感情移入しながら見ることができる。とくに導入部の見事さは、どんなに褒めても褒めすぎにならないほどの出来ばえである。

冒頭のサスペンスは見事


 引越した家へ、車で移動する途中、道に迷ってしまった親子三人。奇妙なトンネルから流れ出る風に誘われて、トンネルの向こうの探索に出かける。そこは、バブルがはじけて倒産してしまった、90年代に大流行の、テーマ・パークの廃墟。しかし何やら美味しそうな匂いが漂い、一部では営業しているらしい。どんどん奥へ進むと、そこには、店員こそいなかったが、料理は煮上がり、開店準備の整った、屋台店があった。そのうちに店員が来るからと、舌鼓を打ち始める両親。しかし、自分達以外に誰も通らず、誰もいない商店街の異様さに、自分は食べる気にはならず、「勝手に食べては叱られるよ」と親をたしなめながら、女の子は、さらに奥へと進む。突き当たりには、湯煙を上げ、観光客を待つばかりとなっている、城郭のような温泉宿があった。しかし、入り口には誰もおらず、「ゆ」と大書した暖簾がたなびいているだけ。それも異様だ。


異様な温泉宿に迷い込む
 突然少年が現れ、「ここは人間の来る所ではない。もう日が暮れる。すぐに引き返さないと、人間に戻れなくなるぞ。」という。気がつくと、あたりは暗くなり始めている。橋の欄干には、足のない幽霊のような男が立っている。追われるように、元の道を引き返す女の子。その背後から、店々に灯りがともって行き、その奥に、気味の悪い黒い影のような生き物がうごめいている。まだ屋台で舌鼓を打っている両親に、「早く帰ろう」と声をかけると、振り向いた顔は豚、食べ過ぎて豚にされていたのだ。「わあっ」と泣き叫び、走りに走って廃墟まで来ると、野原だったところが一面に海。夜の帳がすっかり降りて、漆黒の海の彼方から、満艦飾の電光を煌めかせた船が近づいて来る。
 温泉宿への観光客を乗せた船が波止に着くと、ぞろぞろと乗客が下船するが、そこにはもう人間はいない。ナメクジや蛙など、奇妙な生き物ばかりだ。金縛りに遭ったように、少女は恐怖に打ち震え、波止にしゃがみこむ。体はなぜか融けかかっている。

  

社会の縮図、神々の湯浴み
 冒頭の展開を、こと細かく書いた。見事なサスペンスを、この評文でも体験してもらいたかったからだ。このあと少女は、再び少年に会い、その助けで、人間に戻るチャンスを先延ばしにして、温泉宿を経営する、女傑のような湯婆に雇われ、宿の女中としてさまざまな体験をして行くのだが、そこに至るまででも、手足が6本のカマキリのような風呂炊き爺さん出会ったり、人間世界から先に迷い込んだ先輩の女中に、館内を案内されるスリルなど、サスペンスはまだまだつづく。そして少女の、大体験が始まっても、腐れ神という強烈な悪臭のため、他の湯浴み客が逃げてしまうほどの、汚い客との対決シーンなど、緊張感溢れる描写が続き、中盤までは、あきさせないのだ。
 要するに、このアニメの舞台は、世の中のあらゆる神々が、疲れを癒しに来る温泉宿ということになっていて、その神々のキャラクターの一つ一つが、現代の何かの象徴であり、宿自体が、社会の縮図であるという風になっている。そこへ、現代の元気な女の子が迷い込んで、『不思議の国のアリス』の日本版よろしく、さまざまな体験をして成長するという発想なのだ。腐れ神のエピソードは、湯浴みのあとに、壊れた自転車など、廃棄物がどっと残されるという話で、お大尽遊びをしている他の神々と対置する形で、下層の神の苦しみが描かれる。このあたりの、単なる子供の体験話でない社会批評には、大人の観客も、ぐっと膝を乗り出すことになる。


貧乏神の哀感失うミス
 ところが、次に描かれる貧乏神の話あたりから、少し発想に混乱が出始める。“顔なし”と名付けられたこのキャラクターは、常にベソをかいたような表情で、温泉宿の周辺に出没するのだが、これは明らかに、飽食の神々に対置された、ホームレスのような貧乏神の象徴である。心優しい少女は、縁の窓を少し開けておいて、“顔なし”を暖かい室内に招き入れる。感激した“顔なし”は、幽霊のように、消えたり現れたり出来る性質を利用して、“腐れ神”騒動の際には、陰になり日向になって、少女を助けるのだが、そのお礼に一献を与えられたのを機に、大食の神に変身する。なぜか打出の小槌のように、砂金をどんどん腹から出して料理を持って来させ、食いに食いつづけ、怪獣のように太り、下男や女中役の蛙やナメクジまで食べてしまう。
 このあたりの発想の飛躍は、少々荒っぽ過ぎる。貧乏神がお大尽に変身する心情は分かるとしても、なぜ砂金を出せるようになったのか分からないし、この“顔なし”の粗暴な行動で、この映画に、ただ一つ漂っていた、ペーソスの部分が失われてしまうのである。“顔なし”は、最後まで、少女に密かに献身するだけの、可哀相な存在として描かれるべきであった。


少年の苦悩の描写も不足

 やがて、湯婆にそっくりな、双子の姉である銭婆が登場する。湯婆が権力の象徴、銭婆が財力の象徴であることは明らかで、最初に少女を助けた少年は、白い竜の姿に変えられて、この湯婆の手下として、銭婆との間を行き来させられ、銭婆から財産のすべてを奪おうとする策略の手先となっていた。そして少年の竜は、銭婆から大切なハンコを奪ったため、怒った銭婆に瀕死の重傷を負わされ、さらに、温泉宿に乗り込んできた銭婆は、湯婆が、寂しさを紛らわせるために育てている赤ん坊を、鼠の姿に変えてしまうのである。
 このあたりの展開も、説明的でゴタゴタしていて、あまり快調ではない。むしろこのあたりは、権力の手先に使われる少年の側から、少年が悩む姿を中心に描くべきだったのだ。そうすれば、少年の苦境を助けて、恩返しをしようと決心する少女の心理も、感動的に描出できたであろう。


電車旅は宮沢賢治風だが
 ともかく少女は、瀕死の少年を助けるのも、鼠をもう一度赤ん坊に戻すのも、自分が銭婆のところに乗り込んで、魔法を解いてもらうしかないと決心する。
 温泉宿と、銭婆の住む“沼の底”の屋敷は、広い海で隔てられていた。その海面すれすれを、どこから来て、どこへ行くのか分からない電車が、走っていた。とにかく六つ目の停留所が“沼の底”と教えられ、哀しい存在に戻った“顔なし”や、鼠にされた赤ん坊とともに、電車に乗り込む。この冒険の旅のシーンは、宮沢賢治の名作『銀河鉄道の夜』の、宮崎版とも言えるもので、ロマンに満ちた素晴らしいイメージが連続する。
 しかし、行き着いてから、銭婆の屋敷にたどり着くまでは、大変呆気ないもので、もっと曲折のある苦難の冒険を期待した観客を、簡単に裏切ってしまう。そして銭婆に、少女の健気さを褒められ、魔法を解いてもらい、目覚めて追ってきた、空飛ぶ少年の竜とともに、温泉宿に取って返し、湯婆に赤ん坊を戻し、屠殺寸前の豚だった両親を救うという、大団円への展開は、これまた説明的で、あまり情緒がない。


面白かったが「うん?」
 このアニメーションが、どうして日本最高のヒットとなったのであろうか。殆どの識者は言う。「『風の谷のナウシカ』以来の、宮崎駿とスタジオ・ジブリの信用である。」「実に丁寧に作られた美しい画像、登場する数々のキャラクターのユニークさ、波乱万丈の物語、夢一杯のファンタジーの世界、そんなものが、この作品でも極まっている。」と。まさにその通りであり、私も、そういう全体的な讃辞には異論がない。
 しかし、だからといって、この映画を見た観客が、みんな満足しているかどうか。「面白かったけど、何を描きたかったのかなあ。見終って「うん?」という感じ。『もののけ姫』は難しかったけど、二度見たら、人間がわがままに自然を壊し、神の怒りをかったという物語が、壮大な歴史と未来への展望の中で、描かれていることが分かった。今回は、そういう壮大な構想はないみたいだね。」といった意見が、最大公約数的に出ている。


“社会と子供“への挑戦
 壮大な構想がないわけではない。現代の社会構造批判が横軸である。そして少女が、その社会構造の中で、さまざまな体験をして成長して行く、宮崎版「不思議の国のアリス」が縦軸である。だから、温泉宿が象徴するもの、湯浴みに来る神々や、その他のキャラクターの一つ一つが象徴するもの、また一つ一つのエピソードが象徴するもの、それらがビシビシと決まって行かないことには、当初の構想は、骨組みから崩れて行くのである。
 なぜか、それらが決まらない。とくに中盤以降に、曖昧さや、一人合点が多すぎ、壮大な現代批判映画になり損ねた。そして少女の"不思議の国“の旅も、受身から、能動的な自立へと変身するあたりで、描写不足となり、拍手喝采が出来るほどの、完成された物語になっていない。


好評にあえて竿をさす
 宮崎駿は、『となりのトトロ』で、幼児の健やかな夢を見事に結実させ、この作品を、幼児を持つ家庭の常備ビデオにした。『風の谷のナウシカ』から、『もののけ姫』に至る路線で、過去と未来を貫く、歴史観、自然観、人間観を、宮崎流に完成させた。そして今回、現代社会に果敢に挑戦し、社会と子供の関わりを見つめようとして、挫折した。
 にもかかわらず、日本の映画ジャーナリズムは、大ヒットに映画会社とともに浮かれ、"傑作誕生“"日本映画復興の年”などと、騒いでいる。中身を読むと、私が接した限りでは、前半の見事さと、全体的な技術水準の高さを、褒める批評ばかりで、後半の破綻に触れている批評に出会わない。私としては、破格に長くなった本評文をもって、その流れに竿をさしておきたい。宮崎監督の仕事振りが、心底から映画を愛する者の、渾身の仕事振りであることに、敬意を表しながら。
(木寺清美)

■全国主要都市東宝系公開中(12月頃まで続映予定)

配給社 東宝株式会社 03-3591-3511
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 製作社 スタジオジブリ 〈製作日誌〉 
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