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『千と千尋と神隠し』 (三)

http://www.jcj.gr.jp/forum2.html
『千と千尋と神隠し』と
現代社会批判のまなざし(2001.10.31)


「映画の鏡」への反論


味沢 俊治


 多くの人たちが、『もののけ姫』の思想性の深さと比較して、少々物足りなさと期待はずれを指摘しています。たしかに、小学生が主人公の「千尋」と同一化して空想にふけったり、魔法をかけるシーンがすぐに遊びの材料になってしまうのも、この映画の魅力がなせるわざです。『もののけ姫』の深刻さや観念性、難解さとは違って、この作品のもつストーリーの単純さやキャラクターのユーモラスで親しみやすいところは、みごとにこの映画の興行的成功の条件になりました。
 しかし、そういう皮肉な見方とは別に、やはりこの作品はただものではないと思いました。この作品は『もののけ姫』では語ることができなかった、20世紀の資本主義の過去と現在をメルヘンの中に描ききろうとしています。一見して子供の目線で描かれているようですが、実は一連の宮崎駿作品の中に込められた社会批判のまなざしの集大成ともいえる意味を持った作品に仕上がっています。
 「失われた10年」の間に私たちは、高度経済成長の時代にはおよそ想像もしなかったものに出会うことになります。資本主義の生み出す豊かさは、私たちの生活を保障し、個性を解き放ったかのごとく見えました。個性にあふれ自立した人々によって作り上げられる市民社会は、私たちの未来を開いていくように幻想しました。しかし、豊かな時代が生み出した新しい子供たちは、「顔なし」のように満たされぬ寂しさを金銭で贖おうとし、「坊」のようにたくさんの物と肥大した自我に押しつぶされて赤ん坊のまま自立することができなくなっています。それは、子供たちだけでなく、そういう子供たちをつくり出した大人たちの姿とも二重写しになります。
 迷い込んだ化け物の世界で「千尋」が与えられた呪いを解く鍵は、「働かせてください」と言い続けることでした。バブルに肥え太り豚にされた両親を救い「千尋」が生きのびる道は、「湯屋」で労働することにしかないのです。これはまさに資本主義のパラドックスではないでしょうか。私たちは労働によって何かを生み出すことなしには、人間にはなれないのです。「湯屋」で名前を「千」に変えられた「千尋」は苦しい労働を強いられます。仲間に助けられながら必死で頑張ります。働くことで文句ばかり言っていた少女は少しずつ成長していきます。「銭婆」の魔法でネズミに変えられた「坊」が糸車を必死に回して(この場合の労働は喜びなのです)作った魔法の糸を、編み込んで作った髪留めを「千尋」は「銭婆」からもらいます。これこそ、「呪い」を説く鍵となっているのです。労働の持つ両義性-苦行としての側面と喜びとしての側面-を描きながら、働くことが人間を取り戻していくことなのだという、作者の強いメッセージが見えます。
 そういう目で見ていくと「釜爺」や「ススワタリ」は、古典的な意味で資本主義制度という魔法によって醜い姿を変えられてしまった哀れな中間管理者と労働者に見えます。しかし、彼らは資本主義のシステムに人格のすべてを譲り渡しているわけではありません。かれらは、功利的に生きているのに、ときには「千」の味方になってシステムを逸脱しさえするのです。そして、吉原の遊郭(「回春」なんて張り紙をそれとなくいれるユーモアはおもしろい!)とチャイナタウンをごっちゃ煮にしたような「湯屋」は、現代資本主義のもとで、あらゆる欲望と必要を商品化した歌舞伎町の歓楽街です。子供向きのメルヘンにもかかわらず、宮崎駿のまなざしはそこまでとどいています。
 山を切り開いてこぎれいな住宅街が作られ、そこに「千尋」の家族は引っ越してくる。それは一見すると『平成狸合戦ぽんぽこ』で描かれた豊かな自然に恵まれた多摩丘陵が破壊されることと同じです。しかし、狸たちが神々を動員して環境を破壊する人間に抗議するのとは異なり、この作品ではもっと深い悲しみや矛盾に絡め取られている現在の私たちを描こうとしています。住宅地の背後にあるのは、『ぽんぽこ』のような緑豊かな里森ではなく、バブル経済の宴の中で建設されたテーマパークの残骸とそこにとりついた「魔界」であります。そこでは名前を変えられ、本当の名前を忘れると元の世界に帰ることができなくなる場所です。人々の欲望の渦巻く世界、それも欲望にとらわれ汚れ疲れ果てた神々が、身を清め疲れを癒す「湯屋」の世界です。昼間は人気のない廃墟が、夜になると不夜城のように灯りがともり神々の癒しの場所になりかわります。私たちの住むこぎれいでスマートな世界の背後には、このようにどろどろした欲望の渦巻く世界があって、私たちはその欲望に支配され狂わされながらも、「湯屋」を訪ねる神々のように、救いと癒しをもとめて彷徨っているのではないでしょうか。そういう時代の中で私たちの資本主義は、途方もない怪物をこの100年間に作り出したのです。
 腐臭が漂い汚辱にまみれた「腐れ神」もまたその怪物のひとつです。「腐れ神」の苦しみを癒し「すっきり」させてやる「千」の勇気ある行動は、この汚いものや醜いものに向き合わなければ救われることがない、という宮崎駿の祈りのようなものでもあります。それは、『もののけ姫』の最後で「アシタカ」と「サン」が呪われることをもおそれずに理想に賭けようとするシーンと重なるものがあります。 プロローグで「千尋」の家族が乗っている自動車のナンバーは「1901」です。エピローグでは何事もなかったかのように別の車に乗って21世紀の今に戻ってきます。ドラマチックな冒険がひとときの夢として終了します。この映画は、この100年間に資本主義がつくり出した現実を、まるごとメルヘンの世界の中に切り取ろうとし、「千尋」という少女の成長物語の中に未来を託したすばらしい作品でたあることは見ることは、深か読みすぎるでしょうか。
 最後に「はく」を救い呪いを解くために「千尋」たちが「沼の底」へむかう電車が海を走っていく場面で、わたしは、もっとも深い悲しみと感動を覚えたことを伝えておきます。理由はまだうまく説明できません。まだまだ、たくさんのことが語られているはずです。


映画の鏡を見る
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