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映画評論 その三

 これで終りです、言うている事がムツカシイ。
これを読んで暫らく経ってから映画を見ました。でもそこまで考えることは無かった。
感性の問題か。
    -----------
http://www.jcj.gr.jp/forum2.html
『千と千尋の神隠し』における
映画表現と現代社会批判・再説(2001.10.31)


「映画の鏡」への反響を踏まえて


木寺 清美


失敗作という論調に反論が
 日本国内最高の興行的ヒットとなったアニメ映画『千と千尋の神隠し』について、「ヒットは嬉しいが、現代社会を批判しようというテーマは、表現の中途半端さや一人合点が、とくに後半にあって、十分に描かれているとは言えない。宮崎駿作品としては、失敗作であろう。」という主旨のことを、「映画の鏡」欄に書いたところ、私の気づかなかった深読みや、解釈の間違いを多々指摘され、「本作を失敗作というのは、けしからん」という主旨の反論が、複数寄せられた。とくに、味沢俊治さんという読者の方から寄せられた反論は、着眼点が素晴らしく、宮崎駿の難渋な表現の中から、常人では、汲み取れない意味まで汲み取っておられ、その慧眼ぶりに敬意を表したい。
 味沢さんの反論は、この「フォーラム」欄に全文掲載されているので、それをお読みいただきたいが、私と決定的に解釈が違ったり、どう考えても分からず、解きほぐしてもらった所をあげておくと、解釈の違いは、「顔なし」というキャラクター、解きほぐしてもらった所は、「赤ん坊」が「ねずみ」に変えられる意味、ということになろうか。


虐げられし者の共同体を
 「顔なし」というキャラクターは、本当に影の薄い淋しい存在として登場する。だから私は、ホームレスのような貧しい人の象徴として捉え、少女の親切心で、暖かい室内に入れても貰ってからも、少女に感謝し献身し続ける存在であって欲しい、少女もまた、権力者の湯婆に抑えつけられた、駆け出しの女中だから、虐げられた者同士が、温泉宿という魔界の片隅で、ひっそりと身を寄せ合って、人間愛を確かめ合うというようなシーンが、延々と続いて欲しいと思ったのである。というのも、映画は最初から、サスペンスにつぐサスペンスで進行し、アニメの絵柄も大変華美である。ドラマの常道として、ここらあたりで、静かに落ち着いた、ペーソスの漂うシーンが、やって来る順番だと、考えたのだった。

孤独を金銭で贖う「顔なし」
 ところが「顔なし」は、粗暴な大食漢に変身する。恩を仇で返すのかと言いたいほど、少女を困らせる。そのことがどうしても分からないと、私は書いた。この映画全体を通暁してみても、唯一のペーソス溢れるシーンであるべきなのに、それすらも失われたと書いた。どうしてこんなに、味のない、がさつな活劇シーンを積み重ねるのか、とも思った。しかし味沢さんは、豊かに爛熟した、現代の資本主義社会の中で、満たされぬ寂しさを金銭で贖おうとする現代人の象徴として、「顔なし」は描かれているとし、単にお大尽に対置する貧乏人として、登場させられているのではないという。会社でも家庭でもうだつのあがらないダメ男が、アフター・ファイブに歓楽街にしけこみ、そこでだけ、生き生きとして、偉そうにする。「顔なし」は、そんな人物と二重焼きにして創造されている、というのが味沢さんの見方だ。
 もう一人の反論は、全体としては納得できないものであったが、この「顔なし」に関する部分は、警抜な解釈がなされていた。この人は、寂しさを紛らわすため、少女が欲しくてたまらない、ストーカーみたいな中年男だというのである。その考え方を、私なりに敷衍させると、もともと淫行目的で近づく、卑しい性向の持ち主であるわけだから、土くれを砂金に変える魔法を使って、粗暴な行為をするキャラクターに変身しても、十分納得できるというものである。ニュアンスは違うが、味沢さんと、同じことを言っている。


「坊」は自立できない現代人
 次に「坊」というキャラクターがいる。権力をほしいままにしている湯婆が、家庭的には恵まれない寂しさを紛らわすため、親のない子を連れてきたのか、別室で赤ん坊を育てている。その時だけは猫なで声になり、玩具でもおやつでも、要求するものは何でも与えるという育て方である。そのために、もてあますほどに太った巨大な赤ん坊になり、わがまま三昧に泣き叫ぶ。味沢さんはこの「坊」を、行き着くところまで来た物質文明の中で、「肥大した自我に押しつぶされて、赤ん坊のまま自立することが出来なくなった」現代人の象徴であるという風に書く。私はこの「坊」について、長文になりすぎるという理由で、多くを書かなかったが、そういう設定であることは、十分に理解できた。だが、その次にこの「坊」は、銭婆の魔法で「ねずみ」に変えられ、湯婆は半狂乱になって、わめきちらす。そのことの意味が、私には分らなかった。

「ねずみ」は働く喜びの象徴
 味沢さんはここでも、卓抜な推理で見事な解説を試みている。籠の中の二十日ねずみが、間断なく車輪回しをして遊ぶように、このねずみは、間断なく糸車を回して糸を紡ぎつづけ、少女の海上電車に乗っての冒険旅行にも同行して、銭婆の屋敷にたどり着くまでに、髪留めを編み上げてしまうのだが、これは、“労働”というものが、現代社会ではどうなっているのか、ということについての考察だと、味沢さんはいう。マルクスを持ち出すまでもなく、労働の持つ苦行としての側面と、喜びとしての側面、いわゆる労働の両義性の中で、現代は苦行としての労働ばかりになっているのではないか、働く喜びを満喫することの中で、自己を解放するというようなチャンスは、非常に少なくなっているのではないか。「坊」は、食欲と物欲を満たされ、働くことすら抑止されていたが、ねずみになって、糸を紡ぎつづけることで、労働によって創造する喜びを知った。しかも少女のために、他人のために髪留めを仕上げるという喜びまで知った。それは、余りにも労働が分業化されたことで、失った現代の労働の喜びを、労働の最初から最後までを体験することで、取り戻そうという意味も含まれている。だから、出来上がった髪留めを、少女が銭婆から受け取ったとき、少女自身の魔法が解け、さらに、ねずみが元の健やかな赤ん坊に、竜が元の少年ハクに、豚にされた両親が元の人間に、魔法が解けて行くきっかけとなったのである、という風に味沢さんは書く。
 私は、このあたりのアナロジーを一つも理解できず、イライラして見たので、説明的で情緒がなく、一人合点が多く、現代社会批判は、中途半端に終ったという批評になったわけであるが、味沢さんの論考を読んで、イライラは一挙に解消したことを、正直に告白しておく。


時間芸術の中での表現とは?
 このように、味沢さんの論考に、ご教示を受けたところは多いわけであるが、それでもなお、私がこの映画に戸惑ったのも無理はないという、自己弁護への思いが少し残る。それは「映画的表現とは何か」という点である。
 こういうメルヘンとかファンタジーとかと、呼ばれるジャンルは、たくさんのアナロジーを散りばめて、その集積の中から、作者の言いたいテーマを浮かび上がらせる、というのが、ドラマツルギーの常である。そして同時に、映画という時間芸術は、流れる時間の中で、たった一度だけ、一気呵成にそのアナロジーを体験させる、ということを、原則としている。最近はビデオやDVDが出て、読書のように、前のページを繰り直す、というようなことが、出来るようにはなった。しかし、劇場で見る限り、古典的な原則は、失われていないと思っている。アメリカ製のゲーム・ソフトのような娯楽映画の中には、わざと謎解きをややこしくして、観客のリピートを呼び、興行成績の倍増につなげるといった、映画作りも生まれているようだが、やはりそれは、邪道だと思っている。


情緒不足、説明不足はある
 そういう観点から、『千と千尋の神隠し』を見ると、私が、「顔なし」を誤解したり、「坊」と「ねずみ」の意味に気づかなかったのも、そんなに罪なことでもないように思う。第一、全体に、涙や情緒に欠けるトーンで、押しまくり過ぎている。これだけの苦労をする冒険物語なのだから、どこかで心理的にふさぎこんで、観客の涙を誘うシーンがあっても、おかしくないのだ。前回も書いたが、少年が権力の手下に使われることの悩みを、少年の側から描いた、情緒的なシーンがない。「坊」と「ねずみ」の関係では、「坊」が糸を紡ぎたいと言っていたというような伏線を張るとか、電車旅行をする面々の会話の中で、糸の話題を出すとか、やはりもう少し説明が必要だ。ほかにも、味沢さんですら、触れていない謎が、いくつか残っている。その一つは、湯婆の秘書兼執事のような役まわりの、「頭さん」と呼ばれる、人間の頭だけのキャラクターだ。後にハエドリにされて、また頭に戻るが、これなど、意味不明の典型だ。
 そういう意味では、宮崎駿の映画作りは、分るものが分ればいいと、いささか傲岸のそしりは免れない。大ヒットで、数年に一度しか映画を見ないような人も、劇場に行く。映画が、正しく理解されないのは、観客側の不勉強や、そのときの体調にも関係するが、そうした人たちが、「よく分らない」と言っているのも事実なのである。


1901番の車で百年の旅
 ここで、もう一度、味沢さんの論考にもどる。
 少女ら親子三人が引越そうと考えていた、丘の上の小奇麗な住宅街の背後には、「バブル経済の宴の中で建設されたテーマ・パークの残骸と、そこに取りついた魔界があり」、90年代の失われた10年も、これから始まる小泉改革の21世紀も、その住宅街でのプチブル的生活を、安穏と続ける以上、幻影ないしは空中楼閣であるということを、この映画は、はしなくも暗示する。そして、この20世紀の百年間の、間違った労働の惨禍が、この魔界だとすれば、それを克服するのは、生きる喜びに満ちた労働を続ける以外にないと、少女千尋はそれを実践して、そのキー・ポイントとなった髪留めをつけたまま、人間世界に戻って来るのだ。しかし、現実の世界では、千尋の行動のように、上手く行くのかどうか。小泉改革も、いま足踏みしているように。
 味沢さんも、最後で見落としをされたようである。不思議の国をあとにする三人の、車の車番は何番だったか。来たときの車と車番が違っていたと、書かれておられるだけで、何番であるかは、見落とされたようだ。私は、来たときの車の車番も、帰るときの車番も、一向に気にしていなかったが、来たときは1901番だったと、ちゃんと着眼しておられる味沢さんは素晴らしい。もし、帰りの車が2001番だったら、現実の世界にも、千尋が現れて、魔界の駆逐は早々に出来ると、宮崎駿は考えていることになるし、もっと大きい番号だったら、駆逐は相当に手間取ると、考えていることになる。いずれにしても、少女の、トンネルの向こうの不思議の町の旅は、20世紀の百年を駆け抜ける、資本主義爛熟の旅だったのである。


アナロジーの理解度で評価差
 『千と千尋の神隠し』は、「宮崎作品の中に込められた、社会批判のまなざしの集大成」であるとする、味沢さんの指摘は正しい。しかし、過去から未来に向けて、骨太のテーマが、ずぼっと貫かれていた『もののけ姫』に比べて、少女の冒険という縦軸と、爛熟社会のさまざまな事象という横軸が、複雑に絡まりあい、一つ一つには、描写不足も一人合点もかなりある。ターゲットにした、小学校高学年の児童たちは、遊園地で、お化け屋敷をいくつも回ってきたような体験に、喜々とし、それ以上のことを知る術を、知らないであろう。しかし大人は、これは何かあると膝を乗り出す。だが、散りばめられたアナロジーのすべては掴みきれず、「何なの、これ」という表情で映画館を出て来る人も多い。映像を深読みするコツを知るものと知らないもの、またその程度によって、随分理解に差の出てくる作品である。
 願わくば、アナロジーの一つ一つに、その場で「ふむふむ」と類推したかった。そして一気呵成の映画の時間の中で、少女とともに泣き笑いをしながら、拍手喝采をしたかった。味沢さんも、すべての時間を、拍手しながら見たわけではなく、観賞後、気づいたことを繋ぎ合わせ、考え抜いた末に、あの論考にたどり着かれたと思う。それにしても、私などは、比べるべくもないほど、多くのことに気づいておられ、その慧眼には、あらためて敬意を表したい。
 最後に、前稿の終わりの方で、時流に逆らう意味で、「流れに竿さす」という表現を使い、語法を間違っているという指摘を受けた。もの書きが、誤用の濫用に手を貸すのはよくないので、謝っておきたいと思う。釣竿ではないので、「棹」がベターだというご指摘には、一応認めた上で、竹竿を舟の棹にすることもあると、申し述べておく。
    
■『千と千尋の神隠し』全国主要都市東宝系上映中(12月頃まで続映予定)

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