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サマータイム

 この頃またサマータイムの話が出ている。夏時間を設けて時計を1時間早めるという、これをサマータイムと呼び生活もその時間に合わせることになる。今朝6時に起きて仕事の準備を始める人は、今の時間の5時起床となる。夜ベッドに入る時間も1時間早くなるので同じだという。
しかしホントに同じだろうか。

 細長い国、それも東西に長いので北海道とオキナワでは時間に対する感覚が違うと思うけどな~。ちなみに札幌と那覇は経度で13度も違う、この数字は1時間近くの時差となる。たまたま標準時の位置にある明石が両市の中ほどにあるので問題は少ない。
夏時間導入の根拠の一つに昼間の時間を長くして有効利用するというのもある。この昼間の時間が長いというのは経度もさることながら緯度の影響も大きいのじゃないだろうか。
 今日の日の出は5時37分、日の入りは19時17分となっている。サマータイムが導入されたら時計を1時間進めるので日の入りが18時17分となる。この計算は合っているのかな、いや逆の20時17分か。確かに昼間時間は増える、でも、しかし朝が早くなる。これまでフツーに起きていた時間よりも1時間早めなければならない。別の角度から考えると夜遅くまで遊び、朝早く起きなければならない事態になる。
身体に良いわけが無い。

 身を律すれば変わらないだろうけど、長年染み付いた生活様式や身体の慣れはカンタンにはいかない。体調不良を起こす人が大勢出てくるだろう。北海道に住む方々はお天道様の生活リズムに近くなるので良いだろうけど、わがウチナーにとっては良くない、むしろ1時間うしろにずらしてもらい。

 この年になり決まった時間に毎日出勤ということは無いが、現場は通常8時から始まる、それが現在時間の7時開始となるとタイヘンだ、いくら言葉とか文字では8時です、変わりませんと言われても身体はそうは行かない。
このような法律が通らないことを期待する。
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会計検査院

 我がニッポン国には会計検査院というのがある、国関係の役所の公金の使われ方に関して会計帳簿をひっくり返して検査できる機関であり、独立性の強い役所である。

 タイヘンな権限を持っているので検査が入るということになれば対象機関はテンヤワンヤで大騒ぎして対策を協議するであろう。検査結果がその後の行政運営に生かされるということで国民に還元されてメデタシめでたし。地方・県にも同じ趣旨の機関ー会計検査委員会ーが設置されている。良い制度だと思う。
ただしリッパに機能したならばという前提がつく。

 本来なら期待される機関であるが影が薄い。やはりここもやはりニッポン型の役所であるからでしょう。警察司法のように罰を与えて改善・ハンセイさせるというよりも話し合いで一緒に改善の道を探るというのが強いようだ。検査する側も検査を受ける側も仲間同士という気分があるのだろう。
ムカシ新聞に会計検査院の特集記事があり、その中で検査院の予算は50億円、そして指摘する不当事項の金額が50億円ちょっとということだった。この検査院の予算と不当事項の指摘額との関係は長年変わっていないらしい。
つまり自分達は与えられた予算を使いそれ以上の不当事項を見つけるので費用対効果が充分にあるというアリバイのようだと記者が書いていた。

 そう言われて見れば確かに一理ある。そこである機会に建の監査委員会で監査報告書というのを貰い読んでみた。内容はくだらないどうでもいい事項の指摘に留まっている。帳簿の付け方が違っているとか法令の解釈が違っているとかに留まっていた。
私が期待しているのは、入札制度の改善とかの根本的なことを指摘してもらいたいのだ。
 これまでに県の支出は不当だと検査委員会に訴えたことが3~4回ある。(その他大勢の一員としてです。)しかし検査委員はいつも「正当に支出されている」として我々の訴えを蹴る。結論を出す最大の理由が帳簿上適切にー請求書があり支払手順にもハンコがちゃんと押されて、予算に見合う金額が支出されているー処理されているということだ、つまり形式的に不正は無いと言うているのだ。
我らの要求は事業そのものが可笑しい、間違っていると訴えても、その辺りは一顧だにせず会計手続き上問題無いと言うのである。アホか・・・

もう少しマシな仕事をしなさい、と言いたい。
新聞に出ていた「会計検査院に民間人の知恵を」という記事があった。良いことだと思ったら、ある人が各省・検査院・民間による巨大なアクを隠蔽することの繋がるという発言があった。
検査院の手が入っている事案については国会でも逃げている例が紹介されている。いわれてみればその通りだ。

 どういうことなのかURLを記すが何処に問題点があるかを探すのは一苦労だろう、その人が抜き出した私はダイジェスト版を読んだから分かる。(笑)

http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/001816920080214008.htm

イジワルと言われかねないのでダイジェスト版から更にその一部を載せます。
------
○ 長妻委員

(略)
そして、もう一点。二十七ページでございますけれども、こういう資料を調べていただきました。平成十四年次から六年間、十九年次までで、国交省でいまだ公表されていない法令違反等による不適切な会計処理、これが隠されております、三十四件。この三十四件の法令違反等による不適切な会計処理について発表いただけないですか。


○ 冬柴国務大臣 

会計検査院の照会文書というものは、会計検査事務の過程において、検査を受けるものの説明を求めるために発せられる質問であります。会計検査院の正式な見解や意見の表明ではないと聞いております。

 会計検査院では、意思決定の中立性や厳正、公正な検査の実施を確保するため、照会文書の内容は一切公表しないこととしていると承知をいたしております。その内容が今のものでございます。

 国土交通省で不適切と認められ改善した指摘三十四件につきましては、会計検査院からの照会に基づいて行ったものでありますので、独立した地位にある会計検査院の判断を尊重し、照会文書の内容、さらにはその内容に関してとられた措置を公表することは差し控えさせていただいているわけでございます。

『千と千尋の神隠し』 (一)

以前ブログに転載したものを又載せます。
全文転載はいけない事とは知りつつ、URLを辿っても探しづらいので敢えて全文を転載します。

 この映画評論を読んで、映画好き若しくは評論化の皆さんはこれほど映画を深く見ているのだと恐ろしく感じ、これまで映画を楽しんできた身としては恥じ入ること多しという気分になった。でも私はこんな深読みすることは無いでしょう。デキナイ。

三回に分けて転載します。

http://www.jcj.gr.jp/cinema/cinema_200110.html

日本最高のヒットは嬉しい(2001.10.19)
描かれたものは最高でない
『千と千尋の神隠し』の功罪


『タイタニック』抜く興行成績
 スタジオ・ジブリ製作、宮崎駿監督の新作アニメ『千と千尋の神隠し』は、7月20日の封切日から約2ヶ月で、1687万人を動員し、3年前に、米映画『タイタニック』が、1年以上をかけて動員した観客数1680万人を、抜き去ってしまった。勿論、史上最高にヒットした邦画『もののけ姫』の興行成績は、観客、興収とも早くに抜いているし、邦洋含めて最高の『タイタニック』の興収260億円を抜くのも、時間の問題だという。
 このアニメーション映画が、どうしてそんなにヒットしたのか、老若男女を問わず、心を捉えたこの映画の中身とは、一体何なのか。ここまで社会現象化すると、JCJとしても、本欄でとりあげないわけには、行かなくなった。


失敗作は原則沈黙なのだが・・
 私は、この映画の後半の、人物造形、物語展開がすべてステロタイプなので、『もののけ姫』に比べると、浅薄な失敗作と断じ、本欄でとりあげるのを止めていた。私は、『プライド 運命の瞬間』『ムルデカ』『パール・ハーバー』などのように、存在すること自体が困る映画は、遠慮なく批判させて貰っているが、目的も意図も正しいが、力足らずか意あまってか、完全な作品とはならなかった、いわゆる失敗作は、批判せずに沈黙することにしている。なぜなら、映画は、小説のように、紙と鉛筆があれば書けるというものではなく、多額の資金を必要とし、失敗作といえども、不評で観客が来ず、制作費の回収すら出来なくなると、製作スタッフは、失敗をテコに捲土重来を期すことすら、難しくなるからである。しかし、『千と千尋の神隠し』については、大ヒットで制作費を十分に回収し、次作を作る余力すら生まれたであろうから、きっちりと中身を検証しておきたいと思う。


小学高学年用という意図
 「小学校高学年ぐらいの女の子が、ワクワクしながら見られる映画を、私はまだ作っていなかった。それぐらいの子が、親を離れ、自分の力で生きる術を見出して行く、そんな映画を作りたかった。」宮崎駿は、製作意図を、こんな風に言っている。事実、冒頭から中盤までのこの映画の展開は、実にワクワクしながら、見ることができる。女の子にどんな困難が待ち受け、女の子がどんな運命に翻弄されるのか、見事なサスペンスの中で、女の子に感情移入しながら見ることができる。とくに導入部の見事さは、どんなに褒めても褒めすぎにならないほどの出来ばえである。

冒頭のサスペンスは見事


 引越した家へ、車で移動する途中、道に迷ってしまった親子三人。奇妙なトンネルから流れ出る風に誘われて、トンネルの向こうの探索に出かける。そこは、バブルがはじけて倒産してしまった、90年代に大流行の、テーマ・パークの廃墟。しかし何やら美味しそうな匂いが漂い、一部では営業しているらしい。どんどん奥へ進むと、そこには、店員こそいなかったが、料理は煮上がり、開店準備の整った、屋台店があった。そのうちに店員が来るからと、舌鼓を打ち始める両親。しかし、自分達以外に誰も通らず、誰もいない商店街の異様さに、自分は食べる気にはならず、「勝手に食べては叱られるよ」と親をたしなめながら、女の子は、さらに奥へと進む。突き当たりには、湯煙を上げ、観光客を待つばかりとなっている、城郭のような温泉宿があった。しかし、入り口には誰もおらず、「ゆ」と大書した暖簾がたなびいているだけ。それも異様だ。


異様な温泉宿に迷い込む
 突然少年が現れ、「ここは人間の来る所ではない。もう日が暮れる。すぐに引き返さないと、人間に戻れなくなるぞ。」という。気がつくと、あたりは暗くなり始めている。橋の欄干には、足のない幽霊のような男が立っている。追われるように、元の道を引き返す女の子。その背後から、店々に灯りがともって行き、その奥に、気味の悪い黒い影のような生き物がうごめいている。まだ屋台で舌鼓を打っている両親に、「早く帰ろう」と声をかけると、振り向いた顔は豚、食べ過ぎて豚にされていたのだ。「わあっ」と泣き叫び、走りに走って廃墟まで来ると、野原だったところが一面に海。夜の帳がすっかり降りて、漆黒の海の彼方から、満艦飾の電光を煌めかせた船が近づいて来る。
 温泉宿への観光客を乗せた船が波止に着くと、ぞろぞろと乗客が下船するが、そこにはもう人間はいない。ナメクジや蛙など、奇妙な生き物ばかりだ。金縛りに遭ったように、少女は恐怖に打ち震え、波止にしゃがみこむ。体はなぜか融けかかっている。

  

社会の縮図、神々の湯浴み
 冒頭の展開を、こと細かく書いた。見事なサスペンスを、この評文でも体験してもらいたかったからだ。このあと少女は、再び少年に会い、その助けで、人間に戻るチャンスを先延ばしにして、温泉宿を経営する、女傑のような湯婆に雇われ、宿の女中としてさまざまな体験をして行くのだが、そこに至るまででも、手足が6本のカマキリのような風呂炊き爺さん出会ったり、人間世界から先に迷い込んだ先輩の女中に、館内を案内されるスリルなど、サスペンスはまだまだつづく。そして少女の、大体験が始まっても、腐れ神という強烈な悪臭のため、他の湯浴み客が逃げてしまうほどの、汚い客との対決シーンなど、緊張感溢れる描写が続き、中盤までは、あきさせないのだ。
 要するに、このアニメの舞台は、世の中のあらゆる神々が、疲れを癒しに来る温泉宿ということになっていて、その神々のキャラクターの一つ一つが、現代の何かの象徴であり、宿自体が、社会の縮図であるという風になっている。そこへ、現代の元気な女の子が迷い込んで、『不思議の国のアリス』の日本版よろしく、さまざまな体験をして成長するという発想なのだ。腐れ神のエピソードは、湯浴みのあとに、壊れた自転車など、廃棄物がどっと残されるという話で、お大尽遊びをしている他の神々と対置する形で、下層の神の苦しみが描かれる。このあたりの、単なる子供の体験話でない社会批評には、大人の観客も、ぐっと膝を乗り出すことになる。


貧乏神の哀感失うミス
 ところが、次に描かれる貧乏神の話あたりから、少し発想に混乱が出始める。“顔なし”と名付けられたこのキャラクターは、常にベソをかいたような表情で、温泉宿の周辺に出没するのだが、これは明らかに、飽食の神々に対置された、ホームレスのような貧乏神の象徴である。心優しい少女は、縁の窓を少し開けておいて、“顔なし”を暖かい室内に招き入れる。感激した“顔なし”は、幽霊のように、消えたり現れたり出来る性質を利用して、“腐れ神”騒動の際には、陰になり日向になって、少女を助けるのだが、そのお礼に一献を与えられたのを機に、大食の神に変身する。なぜか打出の小槌のように、砂金をどんどん腹から出して料理を持って来させ、食いに食いつづけ、怪獣のように太り、下男や女中役の蛙やナメクジまで食べてしまう。
 このあたりの発想の飛躍は、少々荒っぽ過ぎる。貧乏神がお大尽に変身する心情は分かるとしても、なぜ砂金を出せるようになったのか分からないし、この“顔なし”の粗暴な行動で、この映画に、ただ一つ漂っていた、ペーソスの部分が失われてしまうのである。“顔なし”は、最後まで、少女に密かに献身するだけの、可哀相な存在として描かれるべきであった。


少年の苦悩の描写も不足

 やがて、湯婆にそっくりな、双子の姉である銭婆が登場する。湯婆が権力の象徴、銭婆が財力の象徴であることは明らかで、最初に少女を助けた少年は、白い竜の姿に変えられて、この湯婆の手下として、銭婆との間を行き来させられ、銭婆から財産のすべてを奪おうとする策略の手先となっていた。そして少年の竜は、銭婆から大切なハンコを奪ったため、怒った銭婆に瀕死の重傷を負わされ、さらに、温泉宿に乗り込んできた銭婆は、湯婆が、寂しさを紛らわせるために育てている赤ん坊を、鼠の姿に変えてしまうのである。
 このあたりの展開も、説明的でゴタゴタしていて、あまり快調ではない。むしろこのあたりは、権力の手先に使われる少年の側から、少年が悩む姿を中心に描くべきだったのだ。そうすれば、少年の苦境を助けて、恩返しをしようと決心する少女の心理も、感動的に描出できたであろう。


電車旅は宮沢賢治風だが
 ともかく少女は、瀕死の少年を助けるのも、鼠をもう一度赤ん坊に戻すのも、自分が銭婆のところに乗り込んで、魔法を解いてもらうしかないと決心する。
 温泉宿と、銭婆の住む“沼の底”の屋敷は、広い海で隔てられていた。その海面すれすれを、どこから来て、どこへ行くのか分からない電車が、走っていた。とにかく六つ目の停留所が“沼の底”と教えられ、哀しい存在に戻った“顔なし”や、鼠にされた赤ん坊とともに、電車に乗り込む。この冒険の旅のシーンは、宮沢賢治の名作『銀河鉄道の夜』の、宮崎版とも言えるもので、ロマンに満ちた素晴らしいイメージが連続する。
 しかし、行き着いてから、銭婆の屋敷にたどり着くまでは、大変呆気ないもので、もっと曲折のある苦難の冒険を期待した観客を、簡単に裏切ってしまう。そして銭婆に、少女の健気さを褒められ、魔法を解いてもらい、目覚めて追ってきた、空飛ぶ少年の竜とともに、温泉宿に取って返し、湯婆に赤ん坊を戻し、屠殺寸前の豚だった両親を救うという、大団円への展開は、これまた説明的で、あまり情緒がない。


面白かったが「うん?」
 このアニメーションが、どうして日本最高のヒットとなったのであろうか。殆どの識者は言う。「『風の谷のナウシカ』以来の、宮崎駿とスタジオ・ジブリの信用である。」「実に丁寧に作られた美しい画像、登場する数々のキャラクターのユニークさ、波乱万丈の物語、夢一杯のファンタジーの世界、そんなものが、この作品でも極まっている。」と。まさにその通りであり、私も、そういう全体的な讃辞には異論がない。
 しかし、だからといって、この映画を見た観客が、みんな満足しているかどうか。「面白かったけど、何を描きたかったのかなあ。見終って「うん?」という感じ。『もののけ姫』は難しかったけど、二度見たら、人間がわがままに自然を壊し、神の怒りをかったという物語が、壮大な歴史と未来への展望の中で、描かれていることが分かった。今回は、そういう壮大な構想はないみたいだね。」といった意見が、最大公約数的に出ている。


“社会と子供“への挑戦
 壮大な構想がないわけではない。現代の社会構造批判が横軸である。そして少女が、その社会構造の中で、さまざまな体験をして成長して行く、宮崎版「不思議の国のアリス」が縦軸である。だから、温泉宿が象徴するもの、湯浴みに来る神々や、その他のキャラクターの一つ一つが象徴するもの、また一つ一つのエピソードが象徴するもの、それらがビシビシと決まって行かないことには、当初の構想は、骨組みから崩れて行くのである。
 なぜか、それらが決まらない。とくに中盤以降に、曖昧さや、一人合点が多すぎ、壮大な現代批判映画になり損ねた。そして少女の"不思議の国“の旅も、受身から、能動的な自立へと変身するあたりで、描写不足となり、拍手喝采が出来るほどの、完成された物語になっていない。


好評にあえて竿をさす
 宮崎駿は、『となりのトトロ』で、幼児の健やかな夢を見事に結実させ、この作品を、幼児を持つ家庭の常備ビデオにした。『風の谷のナウシカ』から、『もののけ姫』に至る路線で、過去と未来を貫く、歴史観、自然観、人間観を、宮崎流に完成させた。そして今回、現代社会に果敢に挑戦し、社会と子供の関わりを見つめようとして、挫折した。
 にもかかわらず、日本の映画ジャーナリズムは、大ヒットに映画会社とともに浮かれ、"傑作誕生“"日本映画復興の年”などと、騒いでいる。中身を読むと、私が接した限りでは、前半の見事さと、全体的な技術水準の高さを、褒める批評ばかりで、後半の破綻に触れている批評に出会わない。私としては、破格に長くなった本評文をもって、その流れに竿をさしておきたい。宮崎監督の仕事振りが、心底から映画を愛する者の、渾身の仕事振りであることに、敬意を表しながら。
(木寺清美)

■全国主要都市東宝系公開中(12月頃まで続映予定)

配給社 東宝株式会社 03-3591-3511
〈公開サイト〉

 製作社 スタジオジブリ 〈製作日誌〉 

『千と千尋の神隠し』 (二)

http://www.jcj.gr.jp/forum2.html


『千と千尋の神隠し』における
映画表現と現代社会批判・再説(2001.10.31)


「映画の鏡」への反響を踏まえて


木寺 清美


失敗作という論調に反論が
 日本国内最高の興行的ヒットとなったアニメ映画『千と千尋の神隠し』について、「ヒットは嬉しいが、現代社会を批判しようというテーマは、表現の中途半端さや一人合点が、とくに後半にあって、十分に描かれているとは言えない。宮崎駿作品としては、失敗作であろう。」という主旨のことを、「映画の鏡」欄に書いたところ、私の気づかなかった深読みや、解釈の間違いを多々指摘され、「本作を失敗作というのは、けしからん」という主旨の反論が、複数寄せられた。とくに、味沢俊治さんという読者の方から寄せられた反論は、着眼点が素晴らしく、宮崎駿の難渋な表現の中から、常人では、汲み取れない意味まで汲み取っておられ、その慧眼ぶりに敬意を表したい。
 味沢さんの反論は、この「フォーラム」欄に全文掲載されているので、それをお読みいただきたいが、私と決定的に解釈が違ったり、どう考えても分からず、解きほぐしてもらった所をあげておくと、解釈の違いは、「顔なし」というキャラクター、解きほぐしてもらった所は、「赤ん坊」が「ねずみ」に変えられる意味、ということになろうか。


虐げられし者の共同体を
 「顔なし」というキャラクターは、本当に影の薄い淋しい存在として登場する。だから私は、ホームレスのような貧しい人の象徴として捉え、少女の親切心で、暖かい室内に入れても貰ってからも、少女に感謝し献身し続ける存在であって欲しい、少女もまた、権力者の湯婆に抑えつけられた、駆け出しの女中だから、虐げられた者同士が、温泉宿という魔界の片隅で、ひっそりと身を寄せ合って、人間愛を確かめ合うというようなシーンが、延々と続いて欲しいと思ったのである。というのも、映画は最初から、サスペンスにつぐサスペンスで進行し、アニメの絵柄も大変華美である。ドラマの常道として、ここらあたりで、静かに落ち着いた、ペーソスの漂うシーンが、やって来る順番だと、考えたのだった。

孤独を金銭で贖う「顔なし」
 ところが「顔なし」は、粗暴な大食漢に変身する。恩を仇で返すのかと言いたいほど、少女を困らせる。そのことがどうしても分からないと、私は書いた。この映画全体を通暁してみても、唯一のペーソス溢れるシーンであるべきなのに、それすらも失われたと書いた。どうしてこんなに、味のない、がさつな活劇シーンを積み重ねるのか、とも思った。しかし味沢さんは、豊かに爛熟した、現代の資本主義社会の中で、満たされぬ寂しさを金銭で贖おうとする現代人の象徴として、「顔なし」は描かれているとし、単にお大尽に対置する貧乏人として、登場させられているのではないという。会社でも家庭でもうだつのあがらないダメ男が、アフター・ファイブに歓楽街にしけこみ、そこでだけ、生き生きとして、偉そうにする。「顔なし」は、そんな人物と二重焼きにして創造されている、というのが味沢さんの見方だ。
 もう一人の反論は、全体としては納得できないものであったが、この「顔なし」に関する部分は、警抜な解釈がなされていた。この人は、寂しさを紛らわすため、少女が欲しくてたまらない、ストーカーみたいな中年男だというのである。その考え方を、私なりに敷衍させると、もともと淫行目的で近づく、卑しい性向の持ち主であるわけだから、土くれを砂金に変える魔法を使って、粗暴な行為をするキャラクターに変身しても、十分納得できるというものである。ニュアンスは違うが、味沢さんと、同じことを言っている。


「坊」は自立できない現代人
 次に「坊」というキャラクターがいる。権力をほしいままにしている湯婆が、家庭的には恵まれない寂しさを紛らわすため、親のない子を連れてきたのか、別室で赤ん坊を育てている。その時だけは猫なで声になり、玩具でもおやつでも、要求するものは何でも与えるという育て方である。そのために、もてあますほどに太った巨大な赤ん坊になり、わがまま三昧に泣き叫ぶ。味沢さんはこの「坊」を、行き着くところまで来た物質文明の中で、「肥大した自我に押しつぶされて、赤ん坊のまま自立することが出来なくなった」現代人の象徴であるという風に書く。私はこの「坊」について、長文になりすぎるという理由で、多くを書かなかったが、そういう設定であることは、十分に理解できた。だが、その次にこの「坊」は、銭婆の魔法で「ねずみ」に変えられ、湯婆は半狂乱になって、わめきちらす。そのことの意味が、私には分らなかった。

「ねずみ」は働く喜びの象徴
 味沢さんはここでも、卓抜な推理で見事な解説を試みている。籠の中の二十日ねずみが、間断なく車輪回しをして遊ぶように、このねずみは、間断なく糸車を回して糸を紡ぎつづけ、少女の海上電車に乗っての冒険旅行にも同行して、銭婆の屋敷にたどり着くまでに、髪留めを編み上げてしまうのだが、これは、“労働”というものが、現代社会ではどうなっているのか、ということについての考察だと、味沢さんはいう。マルクスを持ち出すまでもなく、労働の持つ苦行としての側面と、喜びとしての側面、いわゆる労働の両義性の中で、現代は苦行としての労働ばかりになっているのではないか、働く喜びを満喫することの中で、自己を解放するというようなチャンスは、非常に少なくなっているのではないか。「坊」は、食欲と物欲を満たされ、働くことすら抑止されていたが、ねずみになって、糸を紡ぎつづけることで、労働によって創造する喜びを知った。しかも少女のために、他人のために髪留めを仕上げるという喜びまで知った。それは、余りにも労働が分業化されたことで、失った現代の労働の喜びを、労働の最初から最後までを体験することで、取り戻そうという意味も含まれている。だから、出来上がった髪留めを、少女が銭婆から受け取ったとき、少女自身の魔法が解け、さらに、ねずみが元の健やかな赤ん坊に、竜が元の少年ハクに、豚にされた両親が元の人間に、魔法が解けて行くきっかけとなったのである、という風に味沢さんは書く。
 私は、このあたりのアナロジーを一つも理解できず、イライラして見たので、説明的で情緒がなく、一人合点が多く、現代社会批判は、中途半端に終ったという批評になったわけであるが、味沢さんの論考を読んで、イライラは一挙に解消したことを、正直に告白しておく。


時間芸術の中での表現とは?
 このように、味沢さんの論考に、ご教示を受けたところは多いわけであるが、それでもなお、私がこの映画に戸惑ったのも無理はないという、自己弁護への思いが少し残る。それは「映画的表現とは何か」という点である。
 こういうメルヘンとかファンタジーとかと、呼ばれるジャンルは、たくさんのアナロジーを散りばめて、その集積の中から、作者の言いたいテーマを浮かび上がらせる、というのが、ドラマツルギーの常である。そして同時に、映画という時間芸術は、流れる時間の中で、たった一度だけ、一気呵成にそのアナロジーを体験させる、ということを、原則としている。最近はビデオやDVDが出て、読書のように、前のページを繰り直す、というようなことが、出来るようにはなった。しかし、劇場で見る限り、古典的な原則は、失われていないと思っている。アメリカ製のゲーム・ソフトのような娯楽映画の中には、わざと謎解きをややこしくして、観客のリピートを呼び、興行成績の倍増につなげるといった、映画作りも生まれているようだが、やはりそれは、邪道だと思っている。


情緒不足、説明不足はある
 そういう観点から、『千と千尋の神隠し』を見ると、私が、「顔なし」を誤解したり、「坊」と「ねずみ」の意味に気づかなかったのも、そんなに罪なことでもないように思う。第一、全体に、涙や情緒に欠けるトーンで、押しまくり過ぎている。これだけの苦労をする冒険物語なのだから、どこかで心理的にふさぎこんで、観客の涙を誘うシーンがあっても、おかしくないのだ。前回も書いたが、少年が権力の手下に使われることの悩みを、少年の側から描いた、情緒的なシーンがない。「坊」と「ねずみ」の関係では、「坊」が糸を紡ぎたいと言っていたというような伏線を張るとか、電車旅行をする面々の会話の中で、糸の話題を出すとか、やはりもう少し説明が必要だ。ほかにも、味沢さんですら、触れていない謎が、いくつか残っている。その一つは、湯婆の秘書兼執事のような役まわりの、「頭さん」と呼ばれる、人間の頭だけのキャラクターだ。後にハエドリにされて、また頭に戻るが、これなど、意味不明の典型だ。
 そういう意味では、宮崎駿の映画作りは、分るものが分ればいいと、いささか傲岸のそしりは免れない。大ヒットで、数年に一度しか映画を見ないような人も、劇場に行く。映画が、正しく理解されないのは、観客側の不勉強や、そのときの体調にも関係するが、そうした人たちが、「よく分らない」と言っているのも事実なのである。


1901番の車で百年の旅
 ここで、もう一度、味沢さんの論考にもどる。
 少女ら親子三人が引越そうと考えていた、丘の上の小奇麗な住宅街の背後には、「バブル経済の宴の中で建設されたテーマ・パークの残骸と、そこに取りついた魔界があり」、90年代の失われた10年も、これから始まる小泉改革の21世紀も、その住宅街でのプチブル的生活を、安穏と続ける以上、幻影ないしは空中楼閣であるということを、この映画は、はしなくも暗示する。そして、この20世紀の百年間の、間違った労働の惨禍が、この魔界だとすれば、それを克服するのは、生きる喜びに満ちた労働を続ける以外にないと、少女千尋はそれを実践して、そのキー・ポイントとなった髪留めをつけたまま、人間世界に戻って来るのだ。しかし、現実の世界では、千尋の行動のように、上手く行くのかどうか。小泉改革も、いま足踏みしているように。
 味沢さんも、最後で見落としをされたようである。不思議の国をあとにする三人の、車の車番は何番だったか。来たときの車と車番が違っていたと、書かれておられるだけで、何番であるかは、見落とされたようだ。私は、来たときの車の車番も、帰るときの車番も、一向に気にしていなかったが、来たときは1901番だったと、ちゃんと着眼しておられる味沢さんは素晴らしい。もし、帰りの車が2001番だったら、現実の世界にも、千尋が現れて、魔界の駆逐は早々に出来ると、宮崎駿は考えていることになるし、もっと大きい番号だったら、駆逐は相当に手間取ると、考えていることになる。いずれにしても、少女の、トンネルの向こうの不思議の町の旅は、20世紀の百年を駆け抜ける、資本主義爛熟の旅だったのである。


アナロジーの理解度で評価差
 『千と千尋の神隠し』は、「宮崎作品の中に込められた、社会批判のまなざしの集大成」であるとする、味沢さんの指摘は正しい。しかし、過去から未来に向けて、骨太のテーマが、ずぼっと貫かれていた『もののけ姫』に比べて、少女の冒険という縦軸と、爛熟社会のさまざまな事象という横軸が、複雑に絡まりあい、一つ一つには、描写不足も一人合点もかなりある。ターゲットにした、小学校高学年の児童たちは、遊園地で、お化け屋敷をいくつも回ってきたような体験に、喜々とし、それ以上のことを知る術を、知らないであろう。しかし大人は、これは何かあると膝を乗り出す。だが、散りばめられたアナロジーのすべては掴みきれず、「何なの、これ」という表情で映画館を出て来る人も多い。映像を深読みするコツを知るものと知らないもの、またその程度によって、随分理解に差の出てくる作品である。
 願わくば、アナロジーの一つ一つに、その場で「ふむふむ」と類推したかった。そして一気呵成の映画の時間の中で、少女とともに泣き笑
いをしながら、拍手喝采をしたかった。味沢さんも、すべての時間を、拍手しながら見たわけではなく、観賞後、気づいたことを繋ぎ合わせ、考え抜いた末に、あの論考にたどり着かれたと思う。それにしても、私などは、比べるべくもないほど、多くのことに気づいておられ、その慧眼には、あらためて敬意を表したい。
 最後に、前稿の終わりの方で、時流に逆らう意味で、「流れに竿さす」という表現を使い、語法を間違っているという指摘を受けた。もの書きが、誤用の濫用に手を貸すのはよくないので、謝っておきたいと思う。釣竿ではないので、「棹」がベターだというご指摘には、一応認めた上で、竹竿を舟の棹にすることもあると、申し述べておく。

『千と千尋と神隠し』 (三)

http://www.jcj.gr.jp/forum2.html
『千と千尋と神隠し』と
現代社会批判のまなざし(2001.10.31)


「映画の鏡」への反論


味沢 俊治


 多くの人たちが、『もののけ姫』の思想性の深さと比較して、少々物足りなさと期待はずれを指摘しています。たしかに、小学生が主人公の「千尋」と同一化して空想にふけったり、魔法をかけるシーンがすぐに遊びの材料になってしまうのも、この映画の魅力がなせるわざです。『もののけ姫』の深刻さや観念性、難解さとは違って、この作品のもつストーリーの単純さやキャラクターのユーモラスで親しみやすいところは、みごとにこの映画の興行的成功の条件になりました。
 しかし、そういう皮肉な見方とは別に、やはりこの作品はただものではないと思いました。この作品は『もののけ姫』では語ることができなかった、20世紀の資本主義の過去と現在をメルヘンの中に描ききろうとしています。一見して子供の目線で描かれているようですが、実は一連の宮崎駿作品の中に込められた社会批判のまなざしの集大成ともいえる意味を持った作品に仕上がっています。
 「失われた10年」の間に私たちは、高度経済成長の時代にはおよそ想像もしなかったものに出会うことになります。資本主義の生み出す豊かさは、私たちの生活を保障し、個性を解き放ったかのごとく見えました。個性にあふれ自立した人々によって作り上げられる市民社会は、私たちの未来を開いていくように幻想しました。しかし、豊かな時代が生み出した新しい子供たちは、「顔なし」のように満たされぬ寂しさを金銭で贖おうとし、「坊」のようにたくさんの物と肥大した自我に押しつぶされて赤ん坊のまま自立することができなくなっています。それは、子供たちだけでなく、そういう子供たちをつくり出した大人たちの姿とも二重写しになります。
 迷い込んだ化け物の世界で「千尋」が与えられた呪いを解く鍵は、「働かせてください」と言い続けることでした。バブルに肥え太り豚にされた両親を救い「千尋」が生きのびる道は、「湯屋」で労働することにしかないのです。これはまさに資本主義のパラドックスではないでしょうか。私たちは労働によって何かを生み出すことなしには、人間にはなれないのです。「湯屋」で名前を「千」に変えられた「千尋」は苦しい労働を強いられます。仲間に助けられながら必死で頑張ります。働くことで文句ばかり言っていた少女は少しずつ成長していきます。「銭婆」の魔法でネズミに変えられた「坊」が糸車を必死に回して(この場合の労働は喜びなのです)作った魔法の糸を、編み込んで作った髪留めを「千尋」は「銭婆」からもらいます。これこそ、「呪い」を説く鍵となっているのです。労働の持つ両義性-苦行としての側面と喜びとしての側面-を描きながら、働くことが人間を取り戻していくことなのだという、作者の強いメッセージが見えます。
 そういう目で見ていくと「釜爺」や「ススワタリ」は、古典的な意味で資本主義制度という魔法によって醜い姿を変えられてしまった哀れな中間管理者と労働者に見えます。しかし、彼らは資本主義のシステムに人格のすべてを譲り渡しているわけではありません。かれらは、功利的に生きているのに、ときには「千」の味方になってシステムを逸脱しさえするのです。そして、吉原の遊郭(「回春」なんて張り紙をそれとなくいれるユーモアはおもしろい!)とチャイナタウンをごっちゃ煮にしたような「湯屋」は、現代資本主義のもとで、あらゆる欲望と必要を商品化した歌舞伎町の歓楽街です。子供向きのメルヘンにもかかわらず、宮崎駿のまなざしはそこまでとどいています。
 山を切り開いてこぎれいな住宅街が作られ、そこに「千尋」の家族は引っ越してくる。それは一見すると『平成狸合戦ぽんぽこ』で描かれた豊かな自然に恵まれた多摩丘陵が破壊されることと同じです。しかし、狸たちが神々を動員して環境を破壊する人間に抗議するのとは異なり、この作品ではもっと深い悲しみや矛盾に絡め取られている現在の私たちを描こうとしています。住宅地の背後にあるのは、『ぽんぽこ』のような緑豊かな里森ではなく、バブル経済の宴の中で建設されたテーマパークの残骸とそこにとりついた「魔界」であります。そこでは名前を変えられ、本当の名前を忘れると元の世界に帰ることができなくなる場所です。人々の欲望の渦巻く世界、それも欲望にとらわれ汚れ疲れ果てた神々が、身を清め疲れを癒す「湯屋」の世界です。昼間は人気のない廃墟が、夜になると不夜城のように灯りがともり神々の癒しの場所になりかわります。私たちの住むこぎれいでスマートな世界の背後には、このようにどろどろした欲望の渦巻く世界があって、私たちはその欲望に支配され狂わされながらも、「湯屋」を訪ねる神々のように、救いと癒しをもとめて彷徨っているのではないでしょうか。そういう時代の中で私たちの資本主義は、途方もない怪物をこの100年間に作り出したのです。
 腐臭が漂い汚辱にまみれた「腐れ神」もまたその怪物のひとつです。「腐れ神」の苦しみを癒し「すっきり」させてやる「千」の勇気ある行動は、この汚いものや醜いものに向き合わなければ救われることがない、という宮崎駿の祈りのようなものでもあります。それは、『もののけ姫』の最後で「アシタカ」と「サン」が呪われることをもおそれずに理想に賭けようとするシーンと重なるものがあります。 プロローグで「千尋」の家族が乗っている自動車のナンバーは「1901」です。エピローグでは何事もなかったかのように別の車に乗って21世紀の今に戻ってきます。ドラマチックな冒険がひとときの夢として終了します。この映画は、この100年間に資本主義がつくり出した現実を、まるごとメルヘンの世界の中に切り取ろうとし、「千尋」という少女の成長物語の中に未来を託したすばらしい作品でたあることは見ることは、深か読みすぎるでしょうか。
 最後に「はく」を救い呪いを解くために「千尋」たちが「沼の底」へむかう電車が海を走っていく場面で、わたしは、もっとも深い悲しみと感動を覚えたことを伝えておきます。理由はまだうまく説明できません。まだまだ、たくさんのことが語られているはずです。


映画の鏡を見る

ジンケン

 ジンケンとは・・・ある年齢の人には人絹と聞こえる、お正月前に買ってもらった貰った洋服ー学生服のようなものーも人絹だった。人造繊維で絹に似ていたのだろうか。あるいは絹のようなものを目指したということか。いずれにしてもニセモノである。

 今の世でジンケンを人絹と考える人はまずいない。やはり人権を思い浮かべるでしょう。その時「人権とは」とは何を思って人権という語を発するのか。憲法に定められた基本的人権、フランス革命と人権宣言、流行り言葉としての人権といろいろある。天邪鬼、へそ曲がり気味の私には近頃テレビで盛んに流されているジンケンという語句を素直には受け取れない。
復帰闘争の頃人権とか人権回復とか叫び運動に参加した。当時ジンケンは切実な問題だった。アメリカのあまりにも横暴な抑圧、人権無視に抗議したのである。かつてアメリカはウチナーを民主主義のショーウィンドと呼んだことがある。ショーウィンドがこの程度だからその中味は推して知るべしでしょう。

 人権とは普遍的なものと思うも強国大国にすればそれはカッコ付きとなるのは歴史を見れが一目瞭然だ。歴史的という大袈裟なことをいうまでもなく私が見聞きした範囲でも事例は多い。そういう事だから大層な武器を手に入れたように人権ジンケンと叫ぶのを横目に、私のヘソも曲がるし素直に曲解したくなる。
マスコミ始めニッポンのジンケン主義者は外国だけに目を向けてカッコウ付けずに国内に目を転じてみたらどうだろう。舶来思想・主義は良くないヨ。自分の足元をも見てもらいたい。”慶良間や見いてぃん、睫毛見ーらん”いや見たくないのでしょう。

フリーチベット、ビルマの軍政と批判するのを見ていると普遍的な人権というよりも色眼鏡で見たジンケンに思える。
ジンケンはマガイモノです、絹ではありません。

あが~っ!

 アガ~だけでは済まない痛みがまだある。
あのヤナおばーメ、赤信号を渡りやがって。急ブレーキを掛けたらこちらがスリップして転んだ。しかもあのオバーは私が転ぶのをみて慌ててトンズラした。自分の非を認識したのだろう。逃げると思えば撥ねてしまったほうが良かったかも。
くそったれ。

 膝の半月板を打ち、肩も打ちつけたようだ。転んで暫らくは起き上がれなかった、事務所から若い方が二人出てきて手を貸してくれたので起き上がれた。バイクも片付けてもらった。
ありがとう。

 手が上がらない、幸い左側なのでバイクは何とか運転できたので家まで帰った。どうせ打撲だろうから病院へは行かない。レントゲンを撮られても打撲で終われば湿布するためのサロンパスをもらってオワリになる可能性が大だ。不幸にして飲み薬まで出されると幾ら掛かるだろうか。3~4千円で済むだろうか。
そんなに金を出すならイタミをガマンしておく方がいい。幸い合羽にもズボンにも損傷はない、身体は自然治癒力というのがあるけど、モノには無い。せめてもの幸いだ。(笑)

 金がない者はこのように考えてしまう。チト浅ましいけど病院は遠い存在になった。それにしてもあのオバーにはハラがたつ。私も違法行為はやる、しかしちゃんと判断してやっているのだぞ。赤信号の時は飛び出しなんかしない、左右を確認して渡る。
ちゃんと見て渡れ、この次は跳ね飛ばしてやる。
朝起きても未だイタイ。
あんちくしょう、ハラがたつ。

ヤナハーメー へーくなーグソーかいいけー。

水虫

2年前に閉鎖したブログをある理由で復活した。
その中に書いたことだが、今でも有用と思われるので再掲する。
そろそろ疼きだす人がいることでしょう、是非お試しのほどを!
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足先が 疼きや痒みを覚える時期になった。
数年前まで足裏に出来た水泡を潰して汁をだして、痒みの憂さを晴らす日もあった。
むさくるしいオッサン連中で水虫談義をすることあり、各人の治療経験談を語ったものである。薬を塗るも続かずに治らない人が多かった。当時イチバン聞くといわれた方法は洗面器に酢を入れて足湯をする、というものだった。15分程足を浸けていると効くという話だった。
試したが効かなかった人もいた。

ある本に、チビまるこちゃんの作者が、茶っ葉を患部に貼り付けるようにして寝たら、2週間ほどで治ったとのエッセイがあった。
やはり水虫を根絶するにはある期間の治療が必要なようだ。

根気とか涙ぐましい努力とかいうのに無縁の私は何か特効薬とか治療法がないか探した。ある日ふと思いついた、水虫は菌とかカビである。
それなら殺菌すればいい。
問題はクスリが菌の棲家まで到達するかどうかにかかる、殺菌剤の質というよりも到達度が問題なのではないだろうか。

市販のクスリ、民間療法も気長に、根気よく続ける努力が必要とある、それで殆んどの人が水虫退治に失敗する、
世の水虫に悩まされている人は根気がない人なのだろう。(笑)

ようは治療期間、時間を短縮できればいい。薬の銘柄、質、含有成分なんて殆んど関係ないと思われる。製薬メーカーにとっては1回だけで完治したら儲けがない、そんなクスリを開発するはずがない、この資本主義の世の中で。

ところがこの私がたった一回、それも数時間で水虫を退治する方法を思いつきました。この方法はごく簡単なのですでに行われている可能性はあります。

私の水虫が消えた方法は、少々荒っぽいけど確実に退治できます。
それは患部を酢に浸す方法です。
ただ浸す時間が問題で、最低2時間、3時間は浸したい。
それほど長い間じーっとしておれない、という方がおられるでしょうが
心配後無用。

まずビニール袋に足を突っ込んでそこに酢を流し込む。
ビニールが足にまとわり付くので少量の酢で足全体を浸すことが出来る。
足首を輪ゴムで留めると歩くこともできる。
その上から靴下を履けば人目を気にすることもない。

ただビニールが破けて酢が漏れ出すと少々悲惨なことになる。
たったそれだけです。通勤時間を利用すれば日常生活に影響を与えることもない。
所要時間の後に会社の洗面台で足を洗えば、その後は歩くのもラクになる。
酢の臭いでますますオジサン臭くなるでしょうが。

足の裏は皺くちゃになり、患部付近の皮膚はボロボロと剥けてくるけど
再生するので気にすることはない。
ただ如何なるクスリも真皮まで到達することはないでしょうから、
真皮に巣くう水虫を全滅させることはできない、しかし表皮の部分は死滅しているであろうから、勢力大幅に減少して滅亡の道を辿るでしょう。

2週間後もう一度行えば完璧に死滅させることが出来ると思う。
人間の皮膚は4週間で入れ替わるので、その半分の2週間で生き残った水虫菌が表皮に達した時期を狙う、という単純な発想です。

一度だけでも1,2年は持ちます。
こんな簡単な方法が病院や売薬を買うより効果がある、
たった1回というのがウリです。

水虫に悩まされているアナタ、ビニール袋に足を突っ込みましょう。

必ずしも酢である必要はない、殺菌効果があればなんでもいい。
クレゾール、漂白剤、その他の殺菌剤、しかし濃度とか人体への影響にご注意。
酢は身近にあり食品だから、なんとなく安心できるので使っただけです。
私は原液を使ったが、薄めても効くと思われる。
拘りのある人は玄米酢、黒酢、醸造酢をどうぞ、フィリピンなら椰子酢かな。(笑)
私は安い合成酢を使いました。

東シナ海のガス田開発

 また再掲・転載でお茶を濁すが、埋もれてしまうので時々発掘して前の方に置かねば消えてしまう。
ニッポンが開発してパイプラインを引いてくるなんてことは採算が合うのだろうか。中国本土へはパイプ敷設は割りあいカンタンだろうけど、日本側には海溝とまではいかないが、深くなっている。埋蔵量にパイプライン敷設の問題を考えると共同開発、中国へ陸揚げして船でニッポンへ輸送という道しか考えられないと思う。
政府はたいしたことの無いガス田を別の意味での利用をしているのじゃなかろうか。

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http://www5b.biglobe.ne.jp/%7Ekorea-su/korea-su/jkorea/sonota/0507.html
東シナ海資源開発は共同開発しかない

 東シナ海のガス田開発について、友人の元石油資源開発取締役・猪間明俊氏の意見を紹介する。彼はこの問題は中国との共同開発しかないと主張し、この問題で突っ張ることは中国のナショナリズムを煽るだけで、百害あって一利もないと云う。尚彼の歴史観は我々に近い。

 まず日本の国内法では鉱区境界から百メートル以上離さなければ井戸を掘ってはならないという法律がある。逆に言えば百メートル以上離せば、井戸を掘っても良いことになっている。ガス田や油田では地層の中で、ガスや石油の移動を防ぐことが出来ないから、チューチュー吸われても文句が言えない。
 国際的な共通ルールはないが、多くの国で同様の国内法が制定されている。 まして中間線から五キロも離れた、日本政府も中国側水域と認めてきた海域での開発を止めろと云うのは、国際的常識からして通用しない。

  経産省では今頃になって民間会社に試掘権を与えようと云っているが、試掘権は有効期限がたったの二年、延長が二回認められているが、トータル六年で失効する。試掘権が認められると六十日以内に作業する義務があり、同時に鉱区税納入の義務が生じる。
 中国との合意が出来ぬと井戸も掘れない状況で、鉱区税だけ払う馬鹿はいない。おまけに一つの経済性のある油ガス田を掘り当てる確率は、過去の統計から見て何十件に一件しかない。

 日本はデータを見せろと主張しているが、石油・ガスの探査には、膨大な資金を要し、しかも掘ってみなければ存否が分からないという大きなリスクを背負っている。そのようなリスクを背負って得た地下データは、企業にとって最高の企業機密であり、見返りもなく見せろと云うのは非常識も甚だしい。

 問題の海域は石油よりガスの可能性が大きい。天然ガスは日本に持ち込もうとすれば、液化(LNG)しなければならない。LNGプロジェクトは余程大きなガス田でなければ経済的に成立しない。パイプラインで中国に持ち込む事が最も有利である。この点でも中国との共同開発が必須である。
又広いガス田は一カ所で採掘すると、圧力バランスが崩れる。複数の井戸によるバランスのとれた採掘により、ガス田全体としての可能採掘量が増える。その点からも共同開発が望ましい。

 以上が猪間明俊「東シナ海資源・共同開発が唯一の道」『軍縮・問題資料 七月号』軍縮市民の会・軍縮研究室発行の骨子である。実務家の説得力のある主張と感じ、紹介する。

  尚猪間氏が在籍していた石油資源開発は七十ー八十年代にこの問題水域での中国との共同開発を当時の通産省や外務省に打診していたが、「日本の資源を他国に分ける事はできない」と反対され、実現されなかったとの事である。
又日本の石油会社は二五年も前から、渤海、東シナ海、南シナ海で開発権を中国から得て、共同開発に従事しているとの事である。

つぶやき

 復帰前のこと国際通りで勝共連合のメンバーがハンドマイクで”共産党は悪魔だ、ソ連は・・中国は・・”と毎日訴えていた。
しかし、しかしである、毎日事件を起こすのはアメリカ兵であり、ソ連人や中国人は見たことも無い。そのような状況で、ソ連は悪魔だだから反対しようなんて言うても共感は覚えない。それよりも青信号で横断中の中学生を轢き殺した米兵は公務中という理由で全くのお咎め無し。ソ連の脅威を阻止する為に米軍は駐留していると言われても納得出来るわけが無い。

 遠い親戚より近くの他人ではなく、遠い脅威よりも近くの脅威が怖いのだ。その状況は今も続いている。だからアメリカ軍およびそれを強烈に支持しているヤマト政府に反感を持っている。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、敵の敵は友とも言うのでアメリカーよりアルカイダを応援したくなる。

 このような立場で今度の中国での大地震を見ると中国でコトが起きるのを待っていたようにマスコミがこぞって報道している。それがアラ探しのようにも見える。人的支援を断っているのをミャンマーと同じように扱いたいのだろう。
しかし人的支援を断る中国側の気持ちを推測すると、救援に赴いた解放軍ですら現地へ足を踏み入れることが出来ない現在外国人の救援隊を受け入れが出きるはずが無い。状況の把握すらできていないのに外国人救援隊の対応ができるとは思えない。
 タイムリミット、生存率が格段に下がるといわれている72時間をスタジオから盛んに喚いているけど、そのようなことは災害担当者なら誰でも知っていることだろう。それを手をこまねいて眺めているだけならともかく、多分それなりの体勢を取っているだろう。ああいう国だから方針が決まれば全体がそれに向けて動き出す。首相が現地で陣頭指揮を取っているのもその現れでしょう。 

 何かにつけて問題が起こるのを待ち、それを期待している報道を見聞きすると判断を誤りそうだ。これ以上書くと贔屓の贔屓倒しになりそうだから止めよう。(笑)
災害の対応なんて何処も似たり寄ったりじゃなかろうか。近い例ではカトリーナ、あの時はあのアメリカでさえ対応の遅れや右往左往が報じられた。阪神大地震の時はどうだった。

 実際には起きていない地震に揺られて私のアタマに断層ができたような書き方だな~

ニュースを見て、読んで、

 ニュースを読んでが普通の言葉だと思うも、テレビを何となく見ていて得たものも読むとは言い難い。またインターネットでニュースとか解説のダイジェスト版をナナメにスクロールした場合も読むと言うには気が引ける。
考えてみると「読む」という行為が減った、インプットされた情報も軽いモノになっている、気をつけねば・・・

 ジックリ読まないので発する言葉・文字も空虚だが、空っぽのアタマはそれでも空回りしながら唸り声つまり雑音を発している。

 UFJ銀行のATMシステムの変更でトラブルが起きているとの報道されている。1万数千件あったとのこと。朝は使えない提携銀行の数も増えているようだ。銀行全体で4千万件のカードが発行されている、その中の万単位のトラブルである。当事者にとっては金が引き出せなくなり大きな問題だろうが、数字的に見ると大成功と言えるのじゃなかろうか。
ニッポンはミスを無くすというのを至上命題としているが改めた方がいい。ミスは起こる、起こった時の対応をどうするかにもっと力点を置いたほうがいい。私が好い加減な人間だからそう言う訳ではない。ミスが無いように全精力を傾けるよりも1~2パーセントは事後措置に振り向けた方が現実的であるし、与える被害も少ないと思う。
 
” 評論家としての活動をやめるよう強要されたなどとして、元公明党委員長の矢野絢也氏(76)が12日、創価学会と幹部7人を相手取り、慰謝料など5500万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。”

というのもある。竹入さんも相当苛められたので長期間公明党を指導してきた竹入ー矢野コンビが創価学会の記憶から抹殺されたということか。竹入元委員長は日中国交回復で池田駄作氏の功績をないがしろにしたという事だった。
矢野さんは近頃テレビに出ないと思ったらガッカイから圧力がかかっていたのか。SGI会長さんがやりそうなことだ。
評論活動をするなら公明党やガッカイに耳にも痛いことも言わねば評論家で無くなる。ひと言の異論も気にする人のことだから矢野さんも抑えた発言をしていたのに、それさえ許さないのか。
 唐突だが、私は生き仏願望のSGI会長は社会問題になっている生活習慣病で死亡すると私は考えている。理由は宗教者にしては珍しい自己管理が出来ない人だから。

成都の近くを震源とする大地震が起きた。ヒマラヤがプレート活動に因るものだとは本で知っていたけど、成都付近もその影響があるとは思ってもみなかった。ニッポンは地震国だが我がウチナー島は地震が無い、少ないと言うべきか。私が体感した最高の地震は3程度である。だから地震の恐ろしさは知らない。
先日住宅の火災保険が満期になったので掛けなおすようとの連絡があった。保険金を安くする為地震特約を削るつもりだ。だって建物に被害を及ぼすような地震は起こりっこ無いと思っているから。
中国の地震は私の旅行計画に影響を与えている、この事は「旅」のブログにそのうち書く予定。

東シナ海のガス田開発問題(再掲)

ガス田を問題にしたころ見つけたものです。
このブログにも載せたが再掲します。
こういう面でブログは不便だ。
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http://www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_14.html
東シナ海のガス田開発問題
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 「日中両国の中間線からわずか5キロの位置の春暁ガス田」についての報道がマスコミに登場して約1年、コップの中の飲み物をストローで呑み尽くすに等しい、といった経済産業相の比喩とともに、マスコミは日本ナショナリズムを徹底的に煽り続けてきた。
 ことの真相は何か。疑問に感じて、いろいろ探してみたが、いずれもわけの分からない解説ばかり。このとき干天の慈雨のような文章を発見した。復刊された『軍縮問題資料』2005年7月号に掲載された猪間明俊論文である。
 猪間論文に曰く「日本が主張する排他的経済水域のすぐそばで、中国がガス田を発見し、その開発作業を進めていることに対し、外務省や経済産業省が、中国が日本の資源を吸い上げるのはけしからんとクレームをつけ、開発をやめるように、また、地下地質データを提供するようにと中国に要求している。(中略)私は40年間にわたって日本の石油開発会社に身を置き、石油・天然ガスの探鉱開発の実務に携わった技術専門家であり、中国の南方海域での石油探鉱のために3年近く広州に滞在したこともある。その専門家として身につけた世界の石油業界の常識から見て、日本側の言い分は、じつは穴があったら入りたいと思うほど厚顔無恥そのものなのである」「石油・ガスの探査には極めて多額の資金を投入する必要があり、しかも掘ってみなければ存否が判らないものだけに大きなリスクを負っている。そのようなリスクを負って得た地下のデータは石油会社にとっては最高の企業秘密であり、それを見返りもなく見せろと言い張るのは、工業製品メーカーに特殊技術をよこせと強要するのと同じくらい無礼なことで、非常識も甚だしい」。(42ページ)
 国益を守るために断固として主張する、国益を守るためにはいかなる犠牲をも惜しまない、といった勇ましい主張、それも単なる私人ではなく、日本政府の重要な一部門である経済産業省のトップの主張が「厚顔無恥そのもの」だという判断であるから、これはおだやかではない。
 こう感じて機会を待つうちに、話題の人物猪間明俊氏の講演会で直接ご本人の話を聞くことができた。目から鱗が落ちるといういい方があるが、まさにその通り。この業界の専門家の話は、驚くことばかりであった。
 たとえば境界線から5キロメートルの話だが、この5キロメートルの意味を考えるには、業界の鉱区割の常識が必要だ。日本や各国の国内法レベルで、A社の鉱区の隣にB社の井戸を掘る場合、境界から何メートル離すことが必要か。答えはわずか100メートルだ。
 100メートルしか離れていないならば、油脈がつながっていれば「ストローで吸い上げる」こともありえよう。しかし、これは各国の国内法で許されている業界の常識なのである。では国際間の常識はどうか。何メートル離さなければならないという協定は特にない。協定があれば別だが、なければ国内法の常識を援用することにならざるをえない。100メートルが基準ならば、5キロメートル離れていることは、中国が日中境界線(と日本側が主張している線)から50倍の距離をとったものであり、業界の常識からいえば、妥当なものというほかない。100メートル基準という国内基準(これは専門家しか知らない基準だ)を知らせることなしに、5キロという距離は「ストローで吸い上げることのできる距離」と強調するのは、ほとんど詐欺師まがいの言い分だと専門家はいう。もし「吸い上げられる」のがいやならば、自分も相手の鉱区境界近くに井戸を掘るしかない。この点についていえば、「中間線より5キロも離れた中国側水域での開発をやめろとは、この業界では国際的に通用しない横暴な主張」だと猪間氏はいう(43ページ)。
 結論を急ぐと、猪間氏は共同開発しかないと説く。その根拠は(1)日本が主張する中間線の東側、大陸棚縁辺までの間は、中国も自国のEEZだと主張している地域だから、両国の合意がないかぎり井戸は掘れない。(2)この海域の帰属権を国際司法裁判所に訴えても、日本が勝つとは限らない。国連海洋法条約からいえば、中国側の主張する「自然延長論」の方に分があると言われており、日本はこの海域の権利をすべて失う危惧すらある。
 論点は一つ一つ面白いのでもっと引用したいところだが、これ以上長くなると、猪間氏にも読者にもご迷惑と思われるので、引用をここでやめる。
 今後の課題として海上保安庁のホームページから、二つの地図を掲げる。一つは日本の領海等概念図であり、もう一つは領海基線等模式図である。日本政府の領海概念はここから明らかだが、これに対応する中国の領海概念図がほしい。三つ目の地図は、典拠は中国海洋石油のホームページからコピーしたもので、中国が共同開発を呼びかけている鉱区を示したものである。最後に、国連海洋法の大陸棚に関わる条項をコピーしておく。日本のマスコミには、200カイリの数字が躍るばかりで「大陸棚の延長」についての解説は、ほとんど見当たらない。だが、中国との領海の争点はおそらくこの「延長問題」をどう扱うか、であろう。

文化人(?)知事の一面

これはおもしろい事が書いてあると保存していたものです。
展示されている現代美術よりもシンタローの振る舞いが奇異に感じる。(笑)
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http://www7a.biglobe.ne.jp/~mcpmt/Liberation20060424.html

東京都知事、現代美術を腹にすえかね

カルチエ財団、展覧会の開会式でとんだ「とばっちり」

東京特派員ミシェル・テマン

2006年4月24日 リベラシオン


「都知事は酔っぱらってるのか?」――彼の最初の数語に「ショックを受けた」ある日本の有名スタイリストが首をかしげる。実のところ、東京都知事は、フロアの招待客たちを前にして、いつもながらのお家芸を披露してみせたにすぎなかったのだ。彼はすべてをぶち壊しにしてやろうと考えた。手加減などまったく抜きにして、彼は現代美術をこき下ろし、愚かしくもそれを西洋芸術だけの専売品のごとく描き出してみせるのだった。招待客に背を向けて話す尊大無礼、決めつけの口調と難解を装った語彙をもって、石原は、展覧会そのものをこっぴどくやっつける。たった今、案内付きで鑑賞してきたばかりの展示がよほど退屈だったのだろう。「今日ここに来て、なにかすごいものが見られるんだろうと思っていました。ところが、実際は何も見るべきものはなかった。」イヤホーンで同時通訳を聴きながら、ベルナール・フォルナスはぐっと息をこらえる。

お勧めサイト

http://ryumurakami.jmm.co.jp/
JMM(ジャパン・メール・メディア)は村上龍が編集長として発行するメールマガジンです。

何がいいかと言うと書いている人が良い、とは言え書いている人を誰も知らない、しかし書いてある事がいいのである。ただ長い文章なのが玉にキズだが、書いている人はそれでも言い足りないのだろう。楽しみであり苦痛でもある。(笑)

http://wiredvision.jp/
ワイアードビジョン メールサービスがあり、ほぼ毎日ニュースの要旨が送られてくる。サイエンス関連がおもしろい、きょうも一輪タイプのバイクー即ち二輪車ーの記事があった。18歳の発明家の作品だが考えもしなかったことをカッコ良く仕上げている。
素晴らしいのひと言だ。

 今日初めて発行元のホームページを見た、私が考えていた以上に幅広い。でも深入りするのは止めよう、配信されてくるだけでアップアップだから。でも・・しかし・・興味が出てきた。

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何処のサイトから仕入れたのかメモに書かれていない。ここに転載する深い意味は・・・読めば分かります。

A君はある居酒屋でアルバイトを始めた。

アルバイト初日、身体も大きく風体も怪しげで見るからにヤクザと分かる
5人組の客がやってきた。

A君は怖いながらもしかたなく注文を取りに言ったそうな。

5人組の客「早くビールを持って来い!!!」
A君「はい。で、何本お持ちしましょうか?」
客「馬鹿やろう!これに決まってるだろ!!!」
と怒鳴りながら手のひらをA君に突き出した。

よく見ると小指が・・・
A君、びびりながらもビールを取りに奥に引っ込んでいき、速やかに
ビールを件の客のもとへ運んだ。

5人組の客のテーブルには4本の大ビンと1本の小ビンが置かれた。

・・・・・A君の運命は語るまでもあるまい・・

詩/レミング

好きな詩です。
以前ここのブログに載せた覚えがある。
もう一度読み返そう。

http://zirr.hp.infoseek.co.jp/020372.html
2004.3.14
走る者たちに捧げる


みんなが世界の涯に向う時
私は泥酔していたの
だから私一人とりのこされた
とても辛くて悲しかったわ。
だけど、だから生き残ったの

生きる幸せと死ぬ幸せ、どちらが幸せなのかしら?
酔っているからわからないわ

でもホントは水を飲んで酔ったフリをしていただけなの

───────────

わたしがみんなと走っていたとき
となりで走っていたレミングに
なぜ走るのかって聞いてみたわ

「みんなが走っているからに決まっているじゃない!」

わたしがみんなと走っていたとき
となりで走っていたレミングに聞いてみたの
どこに向って走っているのって

「みんなが向っている方に決まっているじゃない!」

───────────

なぜ走ったのかって?
みんなが走っているからよ
みんなが走っているから
わたしも走る
みんなが走っているから
わたしも走らなればならない
みんなが走っているから
わたしも走りたい

でも わからないことが
ひとつだけあるの
最初に走りはじめたレミングは
誰なのかしら?
最初に走りはじめたレミングは
なぜ走りはじめたのかしら?

もしかしたら
最初に走り始めたレミングは
いまごろ家でゆっくり
酒でも飲んでいるのかもね

───────────

わたしがみんなと走っていたとき
みんなは安心していたの
みんなといっしょに走っているということに
みんなは安心していたの

わたしもみんなと走っていたとき
なにも不安は無かったわ
とても安心だと思えたの
とても安全だと感じたわ

でも 不安がないことに不安を感じたの
完全な安心とか完全な安全って
ほんとに安心安全なのかしら

不安がないことに不安を感じていたれど
わたしは走り続けたの
その不安も無くなるんじゃないかと思って走ったの

───────────

わたしがみんなと走っていたとき
まえを走っていた一匹のレミングが
俺が一番走るのが早いと叫んでいたわ
そしたらとなりで走っていたレミングが
俺の方が走るのが早いと叫んで
猛烈に走り始めたの

みんなが 俺の方が走るのが早い
俺が早い いや俺の方だと競争になったわ

みんなの走る速さは
どんどんどんどん早くなっていったの

どんどんどんどん早くなっていったの

───────────

わたしがみんなと走っていたとき
一匹の老いたレミングが少しずつ
走っているみんなから遅れはじめたの

老いたレミングのことを
レミングたちはノロマと罵ったわ
そしたらもう一匹のレミングもノロマと罵ったの
そしてみんなが老いたレミングを見て
ノロマノロマと叫びはじめたわ
ノロマノロマと叫びながらみんなは走っていたの

老いたレミングは少しずつ少しずつ遅れて
すこしずつ集団から離れて
いつのまにか消えていなくなったの

みんなは老いたレミングがいなくなったことをとても喜んでいたわ
みんなは走りながら
ノロマが死んだよ万歳と叫びながら
走りつづけたの

───────────

わたしがみんなと走っていたとき
マエを走っていた若い一匹のレミングが
とつぜんウシロを振り向いたの
マエを走っていた若い一匹のレミングは
ウシロを見てとても驚いていたわ

マエを走っていた若い一匹のレミングは
ウシロを振り向きながら走っていたから
足もとの小石につまずいて転んだの
みんな マエに向って必死で走っていたから
転んだ若いレミングに気がつかなかったの
若いレミングは走っていたレミングたちに
踏みつぶされて死んだわ

マエだけを見て走っていたみんなは
ウシロをふりむいたレミングの自業自得だと叫んでいたわ

自業自得だ前を見ろ
死にたくなれば前を見ろ
かしこいレミングは前を見ろ
死にたくなれば前を見ろ

若いレミングは
なぜウシロを振り向いたのかしら?
若いレミングはウシロを見たとき
なぜ驚いていたのかしら?

───────────

わたしがみんなと走っていたとき
いっしょに走っていたレミングが
このまま走れば空だって飛べる
って言っていたわ
そして走っていたレミングたちはみんな
このまま走れば空を飛べると信じていたの

羽も無いのになぜ空を飛べるのかしら?
レミングが空を飛べるわけないじゃない!
そう思ったけれどその疑問はとても言えない雰囲気だったわ
だってみんな空を飛べると信じて走っていたんですもの
もし疑ったらいままで走ってきたことが
ムダになってしまうじゃない

ほんとはみんな誰も
空を飛べるだなんて信じていなかったの
それでもみんなは走ったの
ホントはいままで走ってきたことがムダになることが怖いから
空だって飛べるだなんて言っていたのかもしれない

───────────

わたしがみんなと走っていたとき
大きな海の波の音が聞えてきたの

ざぶーん どどーん
それはとても大きな海の波の音だったわ

ざぶーん どどーん
ざぶーん どどーん

そうしたら先頭を走っていたレミングが
空だ!飛ぶぞ!飛ぶぞ!
と叫んだの
そして走っていたみんなも
空だ!飛ぶぞ!飛ぶぞ!
と叫んだわ
空だ!飛ぶぞ!飛ぶぞ!
の大合唱になって
みんなは走りつづけたの

そしてレミングたちはほんとうに空を飛んだの
高い高い崖から飛んだの

空を飛んで海と空が一つになったわ
ざぶーん どどーん
それから・・・
そして・・・・・

・・・・・・・・・・・・・

───────────

「お母さん? どうしたの?」

私は子どもに揺り動かされて眠りから覚めた。

「・・・・あ、ごめんなさい。ちょっと寝ちゃったわ」
「・・・・・」
「どうしたの?」
「あのね、さっき海岸に行ったの」
「海岸? あの崖のあるところ?」
「うん。海にね、
海にいっぱい、レミングの死体が浮かんでいたよ」

私は子どもを抱きしめて言った。

「大丈夫。
あなたはレミングじゃないわ。
レミングたちは空を飛びたかったの。
でもそれがレミングたちにとって本当の幸せかはわからない。
わたしたちは人間だから、
ひとりひとりが違う道を行くの。
あなたもあなたの道を行くのよ。
立ち止まっても、
引き返して別な道を歩いてもかまわないの。
あなたの道はあなた自身で決めるの。
それがあなたの人生。
それがあなたの幸せなのよ」

子どもはうなづいてそっと私を抱きしめた。

自爆・・

http://ameblo.jp/cm23671881/entry-10093878861.html
米国史上、最も不人気な大統領(ル・モンドの記事)
木曜日、メディアは、4月にイラクで49人の米兵が死亡したことを強調することを怠らなかった。これは実際、過去7ヶ月で最も死者が多かった月になる。同じ日、バグダッド北部で二人のカミカゼが婚礼の行進に乗じて、数分おきに爆弾を爆発させ、35人の死者を出した。
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 イラク戦争とブッシュの記事の中で「カミカゼ」が出てきたのに反応しただけです。フランス人はいわゆる自爆テロと神風特攻を同一視していると言える。私も同じだと思っている、国のため愛する人のため命を捧げたと神風特攻隊が美化されている。爆弾を巻きつけて厳しい検問をすり抜けて行くとき何を考え何を想っているのか。
イラク戦争が終結した後のある時記念館ができるだろうか。イスラム教はアラー以外の神を認めないので軍神となることはないだろう。
殉教者と呼ばれるのかな。

 イラクで自爆テロ(今はそう呼ばれている)を行なわせている人たちはカミカゼ特攻隊員のことを何と呼んでいるのだろうか。
殉教者と呼ぶかな? 
もしそうなら呼ばれる側はアチラの世界で戸惑うだろうな。

シンタロー知事閣下

 石原慎太郎自治閣下のジレンマは見ていて可笑しい。大嫌いな中国に対する発言を抑えているのでストレスが溜まっているのだろう。オリンピック誘致なんてことを言わなければ言いたい放題言えたのに言えなくなった。
聖火リレー問題でも本来の彼ならテレビに繰り返し繰り返し放映されるような場面が沢山あっただろうにまるで出てこない。それこそオリンピック誘致のジレンマである。唐突に言い出したオリンピック誘致を本人は成功させたい、しかし状況はヒジョーに不利である。北京の次はロンドンでその後アジアで又行なうという順番はチト苦しい。ただ思いつきだけで自分の在任中に道筋をつけたいという功名心が先走りしただけだろう。

 オリンピックの誘致は選挙で行なわれる、影響力のある中国を敵に回しては絶対に誘致できない。それでネコを被る以外に無い立場なのが慎太郎知事である。ストレスが溜まっているのじゃなかろうかとシンパイになります。(笑)
 先日パンダが死んだ、その時のシンタロー知事のコメントの「寿命が着たら死ぬのは当たり前」「パンダを見たければ居る場所へ見に行けばいい」ということだった。
こどもの日目前に目玉が居なくなった上野動物園、何よりも子供たちにも圧倒的人気のあるパンダなのでもっと別なコメントがあって然るべきでしょうに。
パンダレンタルに金が掛かるので止める、とかパンダの役割は終わったとかもっとマトモな話を出すべきだろう、特に子供たちに。自分の立場を忘れ我がままを通すのは見苦しい。子供に夢のある言葉も発せないでオリンピックの夢を語るなんてヘンだよ。

 政治家だから「機を見るに敏なり」で中国に意味の無いケンカを売ることは止めている。そのように見える、しかし若しかして知事公邸の庭に穴を掘って「シナ人はやはり・・・」とかナンとか喚いているのではなかろうか。知事交代の暁に掘り返してそのエコーを聞いてみたいものだ。(笑)

拉致問題

 拉致問題で家族会の代表がこの連休にワシントンへ行くという。アメリカ詣では前にもあったので今回で何回目になるのだろうか。
北朝鮮と反対方向へ出かけて拉致問題が進展するのだろうかと不思議に思う。何時ものことだが問題の核心の場の周りをピョンピョン飛び跳ねているだけのように見える。

 本来話し合い、それが嫌なことであっても話し合いは避けて通れない。話し合いをしない、交渉しないで何かモノゴトが解決するのだろうか。話し合いをするのが悪のように見ているようだ。その辺りが分からない。
前の会長をしていた方はナゼ孫娘に会いに行かないのか、私には理解できない。死んだ娘を返せ返せと叫ぶより孫に会えば好いのに。孫から娘の様子を聞きたくないのかな~
韓国で拉致された人の親が会いに行ったのとは対照的だ。血の繋がりに対する考え方の相違か。

 外務省は交渉が下手なので言い包められると思っているのだろうか。それにアベもヒドイ、拉致問題を煽るだけで人気取りに使い結局何もしなかった。出来なかった、元々解決への案とか方策は無く思いつきで制裁をしただけなので益々解決の道が閉ざされた考えていいだろう。
拉致問題は解決とは程遠い、それに取り組んでいる人たちは解決よりも自分たちの行動に酔っているとしか見えない。

 拉致された人の手記が一部読めるサイト
http://anarchist.seesaa.net/article/95245739.html#more

 日本は正義、北朝鮮は悪。悪は潰してしまえ。そのような声も出る。被害者の救出とはかけ離れた発想である。一方で北朝鮮は自分たちが正義、日本こそ悪と考えている。お互いに怒りと憎しみをぶつけ合っていて何かが生まれてくるのであろうか?
北朝鮮の怒りと憎しみの原因はどこにあるのか? 日本政府は考える必要がある。そして対話の糸口を見出し、北朝鮮側に真実を語らせるしかない。
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 制裁を続けるだけで解決しますかね ???

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