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可笑しく哀しい歌

貧乏人間カネナイジャー
http://www.youtube.com/watch?v=V_PkKsbjvng

♪~ 不景気 ダンダダーン
   リストラ ガンガガーン
   雀の涙の退職金で この先生活できるのか
   今日も通う バーゲンセール
   出るか必殺 失業保険
   金は無いけど 借金はある 

   -----
まずクリックして聴いてください。
笑える、しかし哀しい。
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交渉人

 日本にも専門家が現れたようだ。
先日テレビを見ていたら、立て篭もり事件で日本で始めて専門家(ネゴシエーター)が説得に当たったとの報道がなされた。へ~いよいよニッポンにも登場か。

 ネゴシエーターという映画を見たとき心理状況を分析して交渉していくサマを見て
”私の性格にピッタリだ、交渉人になりたい。”と家族に言うと、
「お父さんが交渉すると、纏まる話も壊れてしまう。」と一蹴された。

私たちの子供の頃の映画は、犯人を追いつめた名探偵明智小五郎が
”お前たちは完全に包囲された、観念して出て来い。”というスタイルが多かった。その直前のシーンはジープやトラックに警官隊を乗せて現場へ急行する場面だ。現場は緊迫している、早く早くと願っていると危機一髪到着し大団円になるというストーリーだった。あの頃は単純だった、あの単純さは作る側も見る側も単純だったということだろう。

と、ここまで書いて放っておいたら警官が死んだ立て篭もり事件があった。
交渉人が交渉していると報道されたので専門家がいるのだろう、映画のように駆け引きしながら説得しているのだろうか。結果から言えば説得工作の評価どの程度だろうか。この辺りの事をもっと知りたい。

 それと死んだスワット隊員、美談めいたことが報道されていたがあれは犬死と思う。本人は何で死ななければならなかったのだと空の上で考えているだろう。決死の覚悟での行動結果ならともかく流れ弾で死ぬなんて、それもシロート目には重装備していて死んだのだから本人は納得がいかないだろう。
運が悪かったでは済まない、あれは当局に大半の責任がある。2階級特進で祀られてオワリにならないと思うが、ニッポンという国は先例から学ぶという力が不足しているからな~。

ゴーヤージュース

 そろそろゴーヤーの季節になった。子どもの頃は夏の一時期しか出回らなかったゴーヤーも今では年から年中食べられるようになっている。品種改良と植え付けの技術が向上したのだろう。

 藁葺き屋根の住宅にゴーヤー棚若しくはナーベーラー棚が日陰を造っていたのでその下で遊んだ。台風がきてゴーヤー棚が風に煽られて家も引っぱり、つられて家も揺れ始めたので棚を切り倒したこともある。
あの頃はゴーヤーなんて不味いおかずの代表だった。当時、というかつい近年まで夏場の野菜はゴーヤーとナーベーラーしかなく葉野菜は少なかった。貴重な存在だったが子どもの口は合わなかった。

 アセもができて痒い時に葉を身体に擦り付けるようにして覚えがある、アセモに効くと言われていた。実際に効いたかどうかアヤシイものだ。あの頃はジュースで飲むということも殆んど無かった。ジュースにしだしたのは近年からである。美味しくないので広まることは無い。ただ色が綺麗な緑なのでヤマトゥンチュを騙して面白がることはできた。

 10年ほど前フロリダから来た娘をひと月近くホームステイさせたことがある。毎朝婆ちゃんがゴーヤージュースを作って飲ましていた。嫌がったが拒否することは無かった。婆ちゃんがジュースができた事を知らせると真っ先に行く、飲みたいからではなく1番少ないコップを選ぶためである。かがんで目線をジュースの位置に持ってきて数ミリでも少なく入ったコップを選んでいるのを見て大笑いしたものだ。
アメリカの女子高生だけでなく、私にとっても迷惑極まりないゴーヤージュースだった。
 ダニエルは苦いものを口にするとオキナワのことを思い出しているだろう。

友へのRes

本日は標語とか俳句に縁がある日だ。
偶然にも大学時代の先輩、と高校時代のクラスメートから届いた七五調。
一緒にResします。
七五調とか言葉の凝縮遊びには縁・才能の無い私ですが
釣られて試してみます。

> > 会社で安全標語の募集があり、朝の電車で考えた。
 ・・・
> > ベルト良し 足元良しと 声かけて 今日も元気に 気をしめる
> >
> >
> > 空青く 今日の元気に 感謝して 一仕事一片付け 安全職場
> >
> > ゼロ災害へコミットした 世界に広がる 我らの職場 送った人の顔も見えるよ
> >  安全便り
> > ゼロ災害へコミットした 世界に広がる 我らの職場 貴方の幸せは 私の幸せ



災害も報告しなきゃ ノー災害 分かるねお前 上手くやれ

事故出せば 日勤教育覚悟せよ 再教育先はJR西だぞ 

ゼロ災害 掛け声ではなく 生活の
      今日から明日への 架け橋だ
           


   ----
> そんな中で少し風狂に凝ってみようかと、暇に任せての句作りに挑戦してみました。
>ご迷惑でなければ、ご感想など頂き・・・・・なんて堅苦しいことはやめにして、
>下手な句にお付き合い願えれば幸いです。                             
    (桜も終わる頃、近くの公園でベンチに坐る老人を見て)    
             花吹雪  命を待つや  老い独り


 若きころ付きし丹頂の染み、白髪でも覆えず禿げても消えず。あの赤さは年とともに薄まり周りの景観に融けていく。しかし斜めでしかモノゴトを見なくなったのか目に映る景色は歪み道が入り組み先が見えない。高い処から眺めれば道筋も見えるだろうと思えど、メタボリック症候群は腹回りのみならず脳にも付着しているようで超低空飛行もママならない。

 友人知人が世の為他人の為社会の為に身を打ち込んでいるのを見て、私にはこのような素晴らしい人が身近にいるのだと周りの人に吹聴しているだけで我が身が彼らと同列に置かれているような心地好い錯覚に陥り、それを楽しんでいる自分に恥じ入る。恥じる気が残っている分まだ救われると思うも、心の中の片隅でそのように思っているのではなくて大部分を占めているのが疎ましい。

丹頂も 巣篭もりだけで 流される

 俳句や歌は必要に迫られる状況が時々出てくる。お茶の楽しみ方の一つに「香付花月」というのがある。昨秋それの真似事をしたとき「虫の声」という題で句を読むことになり事前にお題が知らされていたにも関わらず四苦八苦、アセ状態でした。

まず伝えたい情景が浮かび上がらず、無理に考えても表現する言葉が浮かばない、詰まってしまう。琉歌や歌・俳句、言葉遊びは難しいです、素直さが足りないのでしょうか。

本来なら感想を書けばいいのでしょうが、逃げておきます。
さてさて最近は物覚えが悪く、書くには書いたがそれを何処の場に発信したのか定かでなくなっている。自分のブログに書いても調べるのがメンドウだし、他所の掲示板ならもう調べようが無い。それで重複する場合もあるので予めお断りしておきます。

 ヤマトゥーとウチナーの酒の飲み方の違いがある。
沖縄の旅行社が企画した黒部アルペンルート観光ツアーに参加したことがある。かつて歩いたミクリガ池付近にから四ダムへはあの頃は無かったロープウェイでス~ッと降りた。観光用にダムの放水までもしてくれる、ビックリやら感激だった。
さて扇沢の旅館での話、大広間での夕食のときひと通り配膳が終わった頃、仲居さんが”ご飯はどうしますか?”と問うた。
 ヤマトゥでは「後でいい」という声がフツーだろう。ところがどっこいほぼ全員が「今」とか「直ぐに」と注文している。お膳の上のサシミやら向う付けに煮物などで酒を飲んだ後にやおらご飯を味噌汁や香の物でお茶漬けで終わるのがヤマトゥスタイルだと思われる。
それに対しウチナー式はサシミやその他で酒を飲みながら、ご飯も食べサーフーフーする頃はお腹もイッパイになる。これで体制が整うので以後本格的に酒が飲める。つまりご飯を食べたら酒はオシマイというルールが無い。
むしろカラ酒は身体に悪いから食べて飲むというのが健康的な飲み方とされている。よい風習なのだろう。オワリの合図なりシキタリが無いというのはウソだろう。不都合なことは忘れ去るという世のシキタリに則っただけだと思う。

ではでは。

いろんな人

 書きたい事はあるのに筆が前に進まない。アレを書こう、これについて書いておこうと思ってメモだけはしている。しかし肉付けの段階で筆が進まない。これまで遅筆の所為にしてきたがそれだけではない、そのモノゴトに対する自分の意見が薄っぺらで書く内容を持っていないことも大きな要因である。
 それでも書いて残しておきたいことを何とか書いてきたし、これからも書いていくつもりだ。

 さてメモ的にでも残しておきたいことは多々ある。
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2007/05/post_9dcc.html#more

サロン誌はマイク・グラベルの経歴と人間像を以下のように説明している:
一文無しで、無職の彼は幸福だと言う。本人の言葉を借りれば“資産ゼロ”の男だ。上院時代の年金は全て前妻に支払い、彼自身は最近何年も光熱費すら稼いでいない。上院議員の席を奪われて以来、二度の破産を経験した。ひとつは自分の会社、もう一つはつい3年前の自己破産である。それでも彼は気にしていない。彼は“至福を追求せよ”という神話学者ジョセフ・キャンベルの言葉を引用する。グラベル夫妻は経済的には“困窮している”が、本人によれば充分満たされているという。
------
まア 、全文を読んで御覧なさい。
ステキなジイサンが今民主党の大統領候補にいるのだ。
願わくばグラベルさんのような年の取り方をしたいものだ。

常識・非常識

 私自身は自分の事をヒジョーニ常識人と考えている。思考能力が常識的な知識で常識的な判断しかできないということです。それゆえ一般大衆の考えていることがよく分かっているツモリです。でも時々私のジョーシキには収まらない事柄がある。ヘンと思うことが何の問題意識も持たずに報道される。私の常識が常識ハズレになってしまったのか。

 例えば先日の交通違反に対する刑罰の強化が報道された。たしか業務上過失違反だったか、よそ見運転・わき見運転による事故の最高刑を5年から7年にするとあった。よそ見わき見運転による事故の刑罰を重くしたらというて期待するほど事故が減るのだろうか。
保育園児に車が突っ込み多数の死傷者が出た、痛ましい事故であった。その原因がCDかテープの入れ替えをするために運転を誤った為に起きた。

 誰もがやっていることである。助手席のモノを取ろうとして或いはタバコを吸おうとしてなど日常的な行いをして事故を起こしている。その行為をするとき”今事故を起こしたら5年から7ねんにの懲役になる(禁固かな)”と考える人がどの程度いると考えているのだろうか、疑問を持つ。
 わき見運転をするな、というほうがムリだ、2~30分の運転ならともかく数時間運転する時は運転中何かをするだろう。その時に正常な運転をしつつ何かの用を済ませる技術・方法を教えたほうが良いと考える。「やるな」というのはカンタンだ、しかしそれだけでは事は済まない、だから現実に事故が起きている。

 事を犯せば厳罰に処することで問題が解決するものではない。感情に流されて法律を弄くるのはおかしい。心理学者や運転に習熟した方々の意見を聞くなどして別の方面からの検討が必要だと思う。

 ついでに、福井県だったか朝方お巡りさんが刺された事件があった。続報が無いのでその後の様子が分からない。あの事件を斜めに見ると狂言じゃなかろうか。テレビでの続報に9時ごろ同僚が発見したとあった、2時間も意識が無く動けなかったようだが、2週間のキズとのこと。オカシイ、2週間の刺し傷で長時間意識が無くなるのだろうか。

 他に大きな事件が起きているので続報が無い、穿った見方をすると報道する内容が無い、つまり捜査が進んでいないのではなくて発表したくないからではないか。
野次馬的にはそう考えたほうがオモシロイ。

映画評論 その三

 これで終りです、言うている事がムツカシイ。
これを読んで暫らく経ってから映画を見ました。でもそこまで考えることは無かった。
感性の問題か。
    -----------
http://www.jcj.gr.jp/forum2.html
『千と千尋の神隠し』における
映画表現と現代社会批判・再説(2001.10.31)


「映画の鏡」への反響を踏まえて


木寺 清美


失敗作という論調に反論が
 日本国内最高の興行的ヒットとなったアニメ映画『千と千尋の神隠し』について、「ヒットは嬉しいが、現代社会を批判しようというテーマは、表現の中途半端さや一人合点が、とくに後半にあって、十分に描かれているとは言えない。宮崎駿作品としては、失敗作であろう。」という主旨のことを、「映画の鏡」欄に書いたところ、私の気づかなかった深読みや、解釈の間違いを多々指摘され、「本作を失敗作というのは、けしからん」という主旨の反論が、複数寄せられた。とくに、味沢俊治さんという読者の方から寄せられた反論は、着眼点が素晴らしく、宮崎駿の難渋な表現の中から、常人では、汲み取れない意味まで汲み取っておられ、その慧眼ぶりに敬意を表したい。
 味沢さんの反論は、この「フォーラム」欄に全文掲載されているので、それをお読みいただきたいが、私と決定的に解釈が違ったり、どう考えても分からず、解きほぐしてもらった所をあげておくと、解釈の違いは、「顔なし」というキャラクター、解きほぐしてもらった所は、「赤ん坊」が「ねずみ」に変えられる意味、ということになろうか。


虐げられし者の共同体を
 「顔なし」というキャラクターは、本当に影の薄い淋しい存在として登場する。だから私は、ホームレスのような貧しい人の象徴として捉え、少女の親切心で、暖かい室内に入れても貰ってからも、少女に感謝し献身し続ける存在であって欲しい、少女もまた、権力者の湯婆に抑えつけられた、駆け出しの女中だから、虐げられた者同士が、温泉宿という魔界の片隅で、ひっそりと身を寄せ合って、人間愛を確かめ合うというようなシーンが、延々と続いて欲しいと思ったのである。というのも、映画は最初から、サスペンスにつぐサスペンスで進行し、アニメの絵柄も大変華美である。ドラマの常道として、ここらあたりで、静かに落ち着いた、ペーソスの漂うシーンが、やって来る順番だと、考えたのだった。

孤独を金銭で贖う「顔なし」
 ところが「顔なし」は、粗暴な大食漢に変身する。恩を仇で返すのかと言いたいほど、少女を困らせる。そのことがどうしても分からないと、私は書いた。この映画全体を通暁してみても、唯一のペーソス溢れるシーンであるべきなのに、それすらも失われたと書いた。どうしてこんなに、味のない、がさつな活劇シーンを積み重ねるのか、とも思った。しかし味沢さんは、豊かに爛熟した、現代の資本主義社会の中で、満たされぬ寂しさを金銭で贖おうとする現代人の象徴として、「顔なし」は描かれているとし、単にお大尽に対置する貧乏人として、登場させられているのではないという。会社でも家庭でもうだつのあがらないダメ男が、アフター・ファイブに歓楽街にしけこみ、そこでだけ、生き生きとして、偉そうにする。「顔なし」は、そんな人物と二重焼きにして創造されている、というのが味沢さんの見方だ。
 もう一人の反論は、全体としては納得できないものであったが、この「顔なし」に関する部分は、警抜な解釈がなされていた。この人は、寂しさを紛らわすため、少女が欲しくてたまらない、ストーカーみたいな中年男だというのである。その考え方を、私なりに敷衍させると、もともと淫行目的で近づく、卑しい性向の持ち主であるわけだから、土くれを砂金に変える魔法を使って、粗暴な行為をするキャラクターに変身しても、十分納得できるというものである。ニュアンスは違うが、味沢さんと、同じことを言っている。


「坊」は自立できない現代人
 次に「坊」というキャラクターがいる。権力をほしいままにしている湯婆が、家庭的には恵まれない寂しさを紛らわすため、親のない子を連れてきたのか、別室で赤ん坊を育てている。その時だけは猫なで声になり、玩具でもおやつでも、要求するものは何でも与えるという育て方である。そのために、もてあますほどに太った巨大な赤ん坊になり、わがまま三昧に泣き叫ぶ。味沢さんはこの「坊」を、行き着くところまで来た物質文明の中で、「肥大した自我に押しつぶされて、赤ん坊のまま自立することが出来なくなった」現代人の象徴であるという風に書く。私はこの「坊」について、長文になりすぎるという理由で、多くを書かなかったが、そういう設定であることは、十分に理解できた。だが、その次にこの「坊」は、銭婆の魔法で「ねずみ」に変えられ、湯婆は半狂乱になって、わめきちらす。そのことの意味が、私には分らなかった。

「ねずみ」は働く喜びの象徴
 味沢さんはここでも、卓抜な推理で見事な解説を試みている。籠の中の二十日ねずみが、間断なく車輪回しをして遊ぶように、このねずみは、間断なく糸車を回して糸を紡ぎつづけ、少女の海上電車に乗っての冒険旅行にも同行して、銭婆の屋敷にたどり着くまでに、髪留めを編み上げてしまうのだが、これは、“労働”というものが、現代社会ではどうなっているのか、ということについての考察だと、味沢さんはいう。マルクスを持ち出すまでもなく、労働の持つ苦行としての側面と、喜びとしての側面、いわゆる労働の両義性の中で、現代は苦行としての労働ばかりになっているのではないか、働く喜びを満喫することの中で、自己を解放するというようなチャンスは、非常に少なくなっているのではないか。「坊」は、食欲と物欲を満たされ、働くことすら抑止されていたが、ねずみになって、糸を紡ぎつづけることで、労働によって創造する喜びを知った。しかも少女のために、他人のために髪留めを仕上げるという喜びまで知った。それは、余りにも労働が分業化されたことで、失った現代の労働の喜びを、労働の最初から最後までを体験することで、取り戻そうという意味も含まれている。だから、出来上がった髪留めを、少女が銭婆から受け取ったとき、少女自身の魔法が解け、さらに、ねずみが元の健やかな赤ん坊に、竜が元の少年ハクに、豚にされた両親が元の人間に、魔法が解けて行くきっかけとなったのである、という風に味沢さんは書く。
 私は、このあたりのアナロジーを一つも理解できず、イライラして見たので、説明的で情緒がなく、一人合点が多く、現代社会批判は、中途半端に終ったという批評になったわけであるが、味沢さんの論考を読んで、イライラは一挙に解消したことを、正直に告白しておく。


時間芸術の中での表現とは?
 このように、味沢さんの論考に、ご教示を受けたところは多いわけであるが、それでもなお、私がこの映画に戸惑ったのも無理はないという、自己弁護への思いが少し残る。それは「映画的表現とは何か」という点である。
 こういうメルヘンとかファンタジーとかと、呼ばれるジャンルは、たくさんのアナロジーを散りばめて、その集積の中から、作者の言いたいテーマを浮かび上がらせる、というのが、ドラマツルギーの常である。そして同時に、映画という時間芸術は、流れる時間の中で、たった一度だけ、一気呵成にそのアナロジーを体験させる、ということを、原則としている。最近はビデオやDVDが出て、読書のように、前のページを繰り直す、というようなことが、出来るようにはなった。しかし、劇場で見る限り、古典的な原則は、失われていないと思っている。アメリカ製のゲーム・ソフトのような娯楽映画の中には、わざと謎解きをややこしくして、観客のリピートを呼び、興行成績の倍増につなげるといった、映画作りも生まれているようだが、やはりそれは、邪道だと思っている。


情緒不足、説明不足はある
 そういう観点から、『千と千尋の神隠し』を見ると、私が、「顔なし」を誤解したり、「坊」と「ねずみ」の意味に気づかなかったのも、そんなに罪なことでもないように思う。第一、全体に、涙や情緒に欠けるトーンで、押しまくり過ぎている。これだけの苦労をする冒険物語なのだから、どこかで心理的にふさぎこんで、観客の涙を誘うシーンがあっても、おかしくないのだ。前回も書いたが、少年が権力の手下に使われることの悩みを、少年の側から描いた、情緒的なシーンがない。「坊」と「ねずみ」の関係では、「坊」が糸を紡ぎたいと言っていたというような伏線を張るとか、電車旅行をする面々の会話の中で、糸の話題を出すとか、やはりもう少し説明が必要だ。ほかにも、味沢さんですら、触れていない謎が、いくつか残っている。その一つは、湯婆の秘書兼執事のような役まわりの、「頭さん」と呼ばれる、人間の頭だけのキャラクターだ。後にハエドリにされて、また頭に戻るが、これなど、意味不明の典型だ。
 そういう意味では、宮崎駿の映画作りは、分るものが分ればいいと、いささか傲岸のそしりは免れない。大ヒットで、数年に一度しか映画を見ないような人も、劇場に行く。映画が、正しく理解されないのは、観客側の不勉強や、そのときの体調にも関係するが、そうした人たちが、「よく分らない」と言っているのも事実なのである。


1901番の車で百年の旅
 ここで、もう一度、味沢さんの論考にもどる。
 少女ら親子三人が引越そうと考えていた、丘の上の小奇麗な住宅街の背後には、「バブル経済の宴の中で建設されたテーマ・パークの残骸と、そこに取りついた魔界があり」、90年代の失われた10年も、これから始まる小泉改革の21世紀も、その住宅街でのプチブル的生活を、安穏と続ける以上、幻影ないしは空中楼閣であるということを、この映画は、はしなくも暗示する。そして、この20世紀の百年間の、間違った労働の惨禍が、この魔界だとすれば、それを克服するのは、生きる喜びに満ちた労働を続ける以外にないと、少女千尋はそれを実践して、そのキー・ポイントとなった髪留めをつけたまま、人間世界に戻って来るのだ。しかし、現実の世界では、千尋の行動のように、上手く行くのかどうか。小泉改革も、いま足踏みしているように。
 味沢さんも、最後で見落としをされたようである。不思議の国をあとにする三人の、車の車番は何番だったか。来たときの車と車番が違っていたと、書かれておられるだけで、何番であるかは、見落とされたようだ。私は、来たときの車の車番も、帰るときの車番も、一向に気にしていなかったが、来たときは1901番だったと、ちゃんと着眼しておられる味沢さんは素晴らしい。もし、帰りの車が2001番だったら、現実の世界にも、千尋が現れて、魔界の駆逐は早々に出来ると、宮崎駿は考えていることになるし、もっと大きい番号だったら、駆逐は相当に手間取ると、考えていることになる。いずれにしても、少女の、トンネルの向こうの不思議の町の旅は、20世紀の百年を駆け抜ける、資本主義爛熟の旅だったのである。


アナロジーの理解度で評価差
 『千と千尋の神隠し』は、「宮崎作品の中に込められた、社会批判のまなざしの集大成」であるとする、味沢さんの指摘は正しい。しかし、過去から未来に向けて、骨太のテーマが、ずぼっと貫かれていた『もののけ姫』に比べて、少女の冒険という縦軸と、爛熟社会のさまざまな事象という横軸が、複雑に絡まりあい、一つ一つには、描写不足も一人合点もかなりある。ターゲットにした、小学校高学年の児童たちは、遊園地で、お化け屋敷をいくつも回ってきたような体験に、喜々とし、それ以上のことを知る術を、知らないであろう。しかし大人は、これは何かあると膝を乗り出す。だが、散りばめられたアナロジーのすべては掴みきれず、「何なの、これ」という表情で映画館を出て来る人も多い。映像を深読みするコツを知るものと知らないもの、またその程度によって、随分理解に差の出てくる作品である。
 願わくば、アナロジーの一つ一つに、その場で「ふむふむ」と類推したかった。そして一気呵成の映画の時間の中で、少女とともに泣き笑いをしながら、拍手喝采をしたかった。味沢さんも、すべての時間を、拍手しながら見たわけではなく、観賞後、気づいたことを繋ぎ合わせ、考え抜いた末に、あの論考にたどり着かれたと思う。それにしても、私などは、比べるべくもないほど、多くのことに気づいておられ、その慧眼には、あらためて敬意を表したい。
 最後に、前稿の終わりの方で、時流に逆らう意味で、「流れに竿さす」という表現を使い、語法を間違っているという指摘を受けた。もの書きが、誤用の濫用に手を貸すのはよくないので、謝っておきたいと思う。釣竿ではないので、「棹」がベターだというご指摘には、一応認めた上で、竹竿を舟の棹にすることもあると、申し述べておく。
    
■『千と千尋の神隠し』全国主要都市東宝系上映中(12月頃まで続映予定)

映画の鏡を見 る

映画評論 そのニ

原文はここにあります、長いログの途中に埋まっているので、日付を頼りに探してください。探すのがメンドウな方はここを読んでください。
http://www.jcj.gr.jp/forum2.html
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『千と千尋と神隠し』と
現代社会批判のまなざし(2001.10.31)


「映画の鏡」への反論


味沢 俊治


 多くの人たちが、『もののけ姫』の思想性の深さと比較して、少々物足りなさと期待はずれを指摘しています。たしかに、小学生が主人公の「千尋」と同一化して空想にふけったり、魔法をかけるシーンがすぐに遊びの材料になってしまうのも、この映画の魅力がなせるわざです。『もののけ姫』の深刻さや観念性、難解さとは違って、この作品のもつストーリーの単純さやキャラクターのユーモラスで親しみやすいところは、みごとにこの映画の興行的成功の条件になりました。
 しかし、そういう皮肉な見方とは別に、やはりこの作品はただものではないと思いました。この作品は『もののけ姫』では語ることができなかった、20世紀の資本主義の過去と現在をメルヘンの中に描ききろうとしています。一見して子供の目線で描かれているようですが、実は一連の宮崎駿作品の中に込められた社会批判のまなざしの集大成ともいえる意味を持った作品に仕上がっています。
 「失われた10年」の間に私たちは、高度経済成長の時代にはおよそ想像もしなかったものに出会うことになります。資本主義の生み出す豊かさは、私たちの生活を保障し、個性を解き放ったかのごとく見えました。個性にあふれ自立した人々によって作り上げられる市民社会は、私たちの未来を開いていくように幻想しました。しかし、豊かな時代が生み出した新しい子供たちは、「顔なし」のように満たされぬ寂しさを金銭で贖おうとし、「坊」のようにたくさんの物と肥大した自我に押しつぶされて赤ん坊のまま自立することができなくなっています。それは、子供たちだけでなく、そういう子供たちをつくり出した大人たちの姿とも二重写しになります。
 迷い込んだ化け物の世界で「千尋」が与えられた呪いを解く鍵は、「働かせてください」と言い続けることでした。バブルに肥え太り豚にされた両親を救い「千尋」が生きのびる道は、「湯屋」で労働することにしかないのです。これはまさに資本主義のパラドックスではないでしょうか。私たちは労働によって何かを生み出すことなしには、人間にはなれないのです。「湯屋」で名前を「千」に変えられた「千尋」は苦しい労働を強いられます。仲間に助けられながら必死で頑張ります。働くことで文句ばかり言っていた少女は少しずつ成長していきます。「銭婆」の魔法でネズミに変えられた「坊」が糸車を必死に回して(この場合の労働は喜びなのです)作った魔法の糸を、編み込んで作った髪留めを「千尋」は「銭婆」からもらいます。これこそ、「呪い」を説く鍵となっているのです。労働の持つ両義性-苦行としての側面と喜びとしての側面-を描きながら、働くことが人間を取り戻していくことなのだという、作者の強いメッセージが見えます。
 そういう目で見ていくと「釜爺」や「ススワタリ」は、古典的な意味で資本主義制度という魔法によって醜い姿を変えられてしまった哀れな中間管理者と労働者に見えます。しかし、彼らは資本主義のシステムに人格のすべてを譲り渡しているわけではありません。かれらは、功利的に生きているのに、ときには「千」の味方になってシステムを逸脱しさえするのです。そして、吉原の遊郭(「回春」なんて張り紙をそれとなくいれるユーモアはおもしろい!)とチャイナタウンをごっちゃ煮にしたような「湯屋」は、現代資本主義のもとで、あらゆる欲望と必要を商品化した歌舞伎町の歓楽街です。子供向きのメルヘンにもかかわらず、宮崎駿のまなざしはそこまでとどいています。
 山を切り開いてこぎれいな住宅街が作られ、そこに「千尋」の家族は引っ越してくる。それは一見すると『平成狸合戦ぽんぽこ』で描かれた豊かな自然に恵まれた多摩丘陵が破壊されることと同じです。しかし、狸たちが神々を動員して環境を破壊する人間に抗議するのとは異なり、この作品ではもっと深い悲しみや矛盾に絡め取られている現在の私たちを描こうとしています。住宅地の背後にあるのは、『ぽんぽこ』のような緑豊かな里森ではなく、バブル経済の宴の中で建設されたテーマパークの残骸とそこにとりついた「魔界」であります。そこでは名前を変えられ、本当の名前を忘れると元の世界に帰ることができなくなる場所です。人々の欲望の渦巻く世界、それも欲望にとらわれ汚れ疲れ果てた神々が、身を清め疲れを癒す「湯屋」の世界です。昼間は人気のない廃墟が、夜になると不夜城のように灯りがともり神々の癒しの場所になりかわります。私たちの住むこぎれいでスマートな世界の背後には、このようにどろどろした欲望の渦巻く世界があって、私たちはその欲望に支配され狂わされながらも、「湯屋」を訪ねる神々のように、救いと癒しをもとめて彷徨っているのではないでしょうか。そういう時代の中で私たちの資本主義は、途方もない怪物をこの100年間に作り出したのです。
 腐臭が漂い汚辱にまみれた「腐れ神」もまたその怪物のひとつです。「腐れ神」の苦しみを癒し「すっきり」させてやる「千」の勇気ある行動は、この汚いものや醜いものに向き合わなければ救われることがない、という宮崎駿の祈りのようなものでもあります。それは、『もののけ姫』の最後で「アシタカ」と「サン」が呪われることをもおそれずに理想に賭けようとするシーンと重なるものがあります。 プロローグで「千尋」の家族が乗っている自動車のナンバーは「1901」です。エピローグでは何事もなかったかのように別の車に乗って21世紀の今に戻ってきます。ドラマチックな冒険がひとときの夢として終了します。この映画は、この100年間に資本主義がつくり出した現実を、まるごとメルヘンの世界の中に切り取ろうとし、「千尋」という少女の成長物語の中に未来を託したすばらしい作品でたあることは見ることは、深か読みすぎるでしょうか。
 最後に「はく」を救い呪いを解くために「千尋」たちが「沼の底」へむかう電車が海を走っていく場面で、わたしは、もっとも深い悲しみと感動を覚えたことを伝えておきます。理由はまだうまく説明できません。まだまだ、たくさんのことが語られているはずです。


映画の鏡を見る

映画を見ての感想

映画を見て多角的な検討を「評論」というのだろうか。
数年前「千と千尋の神隠し」についての論争を読み、ビックリした。
映画をこのような気持ちで見る人がいるのだとたまげたものです。こんなに深読みして映画が楽しいだろうかと心配もした。

3件の記事ですが、まず発端となった記事を紹介して順次続けます。
紹介したURLを開いたほうが読みやすいと思います、わたしはメモとして残す為に全文を保管しておきます。
-----
http://www.jcj.gr.jp/cinema/cinema_200110.html
映画の鏡

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◇映画の鏡2001年7-8月

◇映画の鏡2001年5-6月

◇映画の鏡2001年3-4月

◇映画の鏡2001年1-2月

◇映画の鏡2000年11-12月

◇映画の鏡2000年9-10月






日本最高のヒットは嬉しい(2001.10.19)
描かれたものは最高でない
『千と千尋の神隠し』の功罪


『タイタニック』抜く興行成績
 スタジオ・ジブリ製作、宮崎駿監督の新作アニメ『千と千尋の神隠し』は、7月20日の封切日から約2ヶ月で、1687万人を動員し、3年前に、米映画『タイタニック』が、1年以上をかけて動員した観客数1680万人を、抜き去ってしまった。勿論、史上最高にヒットした邦画『もののけ姫』の興行成績は、観客、興収とも早くに抜いているし、邦洋含めて最高の『タイタニック』の興収260億円を抜くのも、時間の問題だという。
 このアニメーション映画が、どうしてそんなにヒットしたのか、老若男女を問わず、心を捉えたこの映画の中身とは、一体何なのか。ここまで社会現象化すると、JCJとしても、本欄でとりあげないわけには、行かなくなった。


失敗作は原則沈黙なのだが・・
 私は、この映画の後半の、人物造形、物語展開がすべてステロタイプなので、『もののけ姫』に比べると、浅薄な失敗作と断じ、本欄でとりあげるのを止めていた。私は、『プライド 運命の瞬間』『ムルデカ』『パール・ハーバー』などのように、存在すること自体が困る映画は、遠慮なく批判させて貰っているが、目的も意図も正しいが、力足らずか意あまってか、完全な作品とはならなかった、いわゆる失敗作は、批判せずに沈黙することにしている。なぜなら、映画は、小説のように、紙と鉛筆があれば書けるというものではなく、多額の資金を必要とし、失敗作といえども、不評で観客が来ず、制作費の回収すら出来なくなると、製作スタッフは、失敗をテコに捲土重来を期すことすら、難しくなるからである。しかし、『千と千尋の神隠し』については、大ヒットで制作費を十分に回収し、次作を作る余力すら生まれたであろうから、きっちりと中身を検証しておきたいと思う。


小学高学年用という意図
 「小学校高学年ぐらいの女の子が、ワクワクしながら見られる映画を、私はまだ作っていなかった。それぐらいの子が、親を離れ、自分の力で生きる術を見出して行く、そんな映画を作りたかった。」宮崎駿は、製作意図を、こんな風に言っている。事実、冒頭から中盤までのこの映画の展開は、実にワクワクしながら、見ることができる。女の子にどんな困難が待ち受け、女の子がどんな運命に翻弄されるのか、見事なサスペンスの中で、女の子に感情移入しながら見ることができる。とくに導入部の見事さは、どんなに褒めても褒めすぎにならないほどの出来ばえである。

冒頭のサスペンスは見事


 引越した家へ、車で移動する途中、道に迷ってしまった親子三人。奇妙なトンネルから流れ出る風に誘われて、トンネルの向こうの探索に出かける。そこは、バブルがはじけて倒産してしまった、90年代に大流行の、テーマ・パークの廃墟。しかし何やら美味しそうな匂いが漂い、一部では営業しているらしい。どんどん奥へ進むと、そこには、店員こそいなかったが、料理は煮上がり、開店準備の整った、屋台店があった。そのうちに店員が来るからと、舌鼓を打ち始める両親。しかし、自分達以外に誰も通らず、誰もいない商店街の異様さに、自分は食べる気にはならず、「勝手に食べては叱られるよ」と親をたしなめながら、女の子は、さらに奥へと進む。突き当たりには、湯煙を上げ、観光客を待つばかりとなっている、城郭のような温泉宿があった。しかし、入り口には誰もおらず、「ゆ」と大書した暖簾がたなびいているだけ。それも異様だ。


異様な温泉宿に迷い込む
 突然少年が現れ、「ここは人間の来る所ではない。もう日が暮れる。すぐに引き返さないと、人間に戻れなくなるぞ。」という。気がつくと、あたりは暗くなり始めている。橋の欄干には、足のない幽霊のような男が立っている。追われるように、元の道を引き返す女の子。その背後から、店々に灯りがともって行き、その奥に、気味の悪い黒い影のような生き物がうごめいている。まだ屋台で舌鼓を打っている両親に、「早く帰ろう」と声をかけると、振り向いた顔は豚、食べ過ぎて豚にされていたのだ。「わあっ」と泣き叫び、走りに走って廃墟まで来ると、野原だったところが一面に海。夜の帳がすっかり降りて、漆黒の海の彼方から、満艦飾の電光を煌めかせた船が近づいて来る。
 温泉宿への観光客を乗せた船が波止に着くと、ぞろぞろと乗客が下船するが、そこにはもう人間はいない。ナメクジや蛙など、奇妙な生き物ばかりだ。金縛りに遭ったように、少女は恐怖に打ち震え、波止にしゃがみこむ。体はなぜか融けかかっている。

  

社会の縮図、神々の湯浴み
 冒頭の展開を、こと細かく書いた。見事なサスペンスを、この評文でも体験してもらいたかったからだ。このあと少女は、再び少年に会い、その助けで、人間に戻るチャンスを先延ばしにして、温泉宿を経営する、女傑のような湯婆に雇われ、宿の女中としてさまざまな体験をして行くのだが、そこに至るまででも、手足が6本のカマキリのような風呂炊き爺さん出会ったり、人間世界から先に迷い込んだ先輩の女中に、館内を案内されるスリルなど、サスペンスはまだまだつづく。そして少女の、大体験が始まっても、腐れ神という強烈な悪臭のため、他の湯浴み客が逃げてしまうほどの、汚い客との対決シーンなど、緊張感溢れる描写が続き、中盤までは、あきさせないのだ。
 要するに、このアニメの舞台は、世の中のあらゆる神々が、疲れを癒しに来る温泉宿ということになっていて、その神々のキャラクターの一つ一つが、現代の何かの象徴であり、宿自体が、社会の縮図であるという風になっている。そこへ、現代の元気な女の子が迷い込んで、『不思議の国のアリス』の日本版よろしく、さまざまな体験をして成長するという発想なのだ。腐れ神のエピソードは、湯浴みのあとに、壊れた自転車など、廃棄物がどっと残されるという話で、お大尽遊びをしている他の神々と対置する形で、下層の神の苦しみが描かれる。このあたりの、単なる子供の体験話でない社会批評には、大人の観客も、ぐっと膝を乗り出すことになる。


貧乏神の哀感失うミス
 ところが、次に描かれる貧乏神の話あたりから、少し発想に混乱が出始める。“顔なし”と名付けられたこのキャラクターは、常にベソをかいたような表情で、温泉宿の周辺に出没するのだが、これは明らかに、飽食の神々に対置された、ホームレスのような貧乏神の象徴である。心優しい少女は、縁の窓を少し開けておいて、“顔なし”を暖かい室内に招き入れる。感激した“顔なし”は、幽霊のように、消えたり現れたり出来る性質を利用して、“腐れ神”騒動の際には、陰になり日向になって、少女を助けるのだが、そのお礼に一献を与えられたのを機に、大食の神に変身する。なぜか打出の小槌のように、砂金をどんどん腹から出して料理を持って来させ、食いに食いつづけ、怪獣のように太り、下男や女中役の蛙やナメクジまで食べてしまう。
 このあたりの発想の飛躍は、少々荒っぽ過ぎる。貧乏神がお大尽に変身する心情は分かるとしても、なぜ砂金を出せるようになったのか分からないし、この“顔なし”の粗暴な行動で、この映画に、ただ一つ漂っていた、ペーソスの部分が失われてしまうのである。“顔なし”は、最後まで、少女に密かに献身するだけの、可哀相な存在として描かれるべきであった。


少年の苦悩の描写も不足

 やがて、湯婆にそっくりな、双子の姉である銭婆が登場する。湯婆が権力の象徴、銭婆が財力の象徴であることは明らかで、最初に少女を助けた少年は、白い竜の姿に変えられて、この湯婆の手下として、銭婆との間を行き来させられ、銭婆から財産のすべてを奪おうとする策略の手先となっていた。そして少年の竜は、銭婆から大切なハンコを奪ったため、怒った銭婆に瀕死の重傷を負わされ、さらに、温泉宿に乗り込んできた銭婆は、湯婆が、寂しさを紛らわせるために育てている赤ん坊を、鼠の姿に変えてしまうのである。
 このあたりの展開も、説明的でゴタゴタしていて、あまり快調ではない。むしろこのあたりは、権力の手先に使われる少年の側から、少年が悩む姿を中心に描くべきだったのだ。そうすれば、少年の苦境を助けて、恩返しをしようと決心する少女の心理も、感動的に描出できたであろう。


電車旅は宮沢賢治風だが
 ともかく少女は、瀕死の少年を助けるのも、鼠をもう一度赤ん坊に戻すのも、自分が銭婆のところに乗り込んで、魔法を解いてもらうしかないと決心する。
 温泉宿と、銭婆の住む“沼の底”の屋敷は、広い海で隔てられていた。その海面すれすれを、どこから来て、どこへ行くのか分からない電車が、走っていた。とにかく六つ目の停留所が“沼の底”と教えられ、哀しい存在に戻った“顔なし”や、鼠にされた赤ん坊とともに、電車に乗り込む。この冒険の旅のシーンは、宮沢賢治の名作『銀河鉄道の夜』の、宮崎版とも言えるもので、ロマンに満ちた素晴らしいイメージが連続する。
 しかし、行き着いてから、銭婆の屋敷にたどり着くまでは、大変呆気ないもので、もっと曲折のある苦難の冒険を期待した観客を、簡単に裏切ってしまう。そして銭婆に、少女の健気さを褒められ、魔法を解いてもらい、目覚めて追ってきた、空飛ぶ少年の竜とともに、温泉宿に取って返し、湯婆に赤ん坊を戻し、屠殺寸前の豚だった両親を救うという、大団円への展開は、これまた説明的で、あまり情緒がない。


面白かったが「うん?」
 このアニメーションが、どうして日本最高のヒットとなったのであろうか。殆どの識者は言う。「『風の谷のナウシカ』以来の、宮崎駿とスタジオ・ジブリの信用である。」「実に丁寧に作られた美しい画像、登場する数々のキャラクターのユニークさ、波乱万丈の物語、夢一杯のファンタジーの世界、そんなものが、この作品でも極まっている。」と。まさにその通りであり、私も、そういう全体的な讃辞には異論がない。
 しかし、だからといって、この映画を見た観客が、みんな満足しているかどうか。「面白かったけど、何を描きたかったのかなあ。見終って「うん?」という感じ。『もののけ姫』は難しかったけど、二度見たら、人間がわがままに自然を壊し、神の怒りをかったという物語が、壮大な歴史と未来への展望の中で、描かれていることが分かった。今回は、そういう壮大な構想はないみたいだね。」といった意見が、最大公約数的に出ている。


“社会と子供“への挑戦
 壮大な構想がないわけではない。現代の社会構造批判が横軸である。そして少女が、その社会構造の中で、さまざまな体験をして成長して行く、宮崎版「不思議の国のアリス」が縦軸である。だから、温泉宿が象徴するもの、湯浴みに来る神々や、その他のキャラクターの一つ一つが象徴するもの、また一つ一つのエピソードが象徴するもの、それらがビシビシと決まって行かないことには、当初の構想は、骨組みから崩れて行くのである。
 なぜか、それらが決まらない。とくに中盤以降に、曖昧さや、一人合点が多すぎ、壮大な現代批判映画になり損ねた。そして少女の"不思議の国“の旅も、受身から、能動的な自立へと変身するあたりで、描写不足となり、拍手喝采が出来るほどの、完成された物語になっていない。


好評にあえて竿をさす
 宮崎駿は、『となりのトトロ』で、幼児の健やかな夢を見事に結実させ、この作品を、幼児を持つ家庭の常備ビデオにした。『風の谷のナウシカ』から、『もののけ姫』に至る路線で、過去と未来を貫く、歴史観、自然観、人間観を、宮崎流に完成させた。そして今回、現代社会に果敢に挑戦し、社会と子供の関わりを見つめようとして、挫折した。
 にもかかわらず、日本の映画ジャーナリズムは、大ヒットに映画会社とともに浮かれ、"傑作誕生“"日本映画復興の年”などと、騒いでいる。中身を読むと、私が接した限りでは、前半の見事さと、全体的な技術水準の高さを、褒める批評ばかりで、後半の破綻に触れている批評に出会わない。私としては、破格に長くなった本評文をもって、その流れに竿をさしておきたい。宮崎監督の仕事振りが、心底から映画を愛する者の、渾身の仕事振りであることに、敬意を表しながら。
(木寺清美)

■全国主要都市東宝系公開中(12月頃まで続映予定)

配給社 東宝株式会社 03-3591-3511
〈公開サイト〉

 製作社 スタジオジブリ 〈製作日誌〉 


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辺野古の状況 (転載)

5月18日、未明=早朝から辺野古への【違法調査】が
行われました。現場で日本政府の違法を阻止したかたからの
報告です。

また、辺野古での調査の違法性については、私のブログも
お読みください。

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真喜志好一
maxi@ryukyu.ne.jp
http://blogs.yahoo.co.jp/okinawa_maxi

4月26日です!!!

========以下転送です====【転送歓迎】

真喜志好一様

遅い時間の配信申し訳ありません。

今日一日のことを報告します。
これを読むだけでなく、傍観するのではなく、どうか辺野古に駆けつけ てください。

明日、明後日も未明より作業が行われる可能性があります。
この2週間ほとんど休むことなく警戒を続け、今日も10時間以上 海上で非暴力の座り込みを行ってきた仲間達は疲れ切っています。どう か、一緒にこの平和を求める活動に参加してください。

わたし達のほとんどは、皆さんと同じ、何にも所属していない一人の市 民です。
特にカヌーに乗っている人の半数近くは定年退職者です。
わたし達は反対派でも妨害者、過激派でもなく、ましてや日本の軍隊が 向き合うような「軍隊」とは天と地ほどの違いがあります。
これ以上沖縄を、ジュゴンの海を毀さないでください。
沖縄を、日本を、アメリカと一体となって世界中で無垢の市民を殺し続 ける加害へと荷担させないでください。ベトナムでの、イラクで市民を 殺戮した爆弾はわたし達の島から飛び立っているのです。

どうか辺野古へ駆けつけてください。
・ダイバーが足りません。無抵抗で海底の機器設置場所に座り込むわた し達のダイバーに対して、殴る蹴るの暴行が水中で行われています。多 くの目撃者、カメラが集中することによってこのような命にかかわる危 険な行為を止めさせることができます。
・カヌーに乗る方が足りません。もうみんなへとへとです。来ていただ ければ、時間を作って練習を行います。


以下報告です。
昨夜、午前0時には100人ほどの人たちが集まってくださ り、交代で寝ながら監視行動を続けました。
午前4時、出航準備をしに外に出たところ、海の方からエンジンの音が ゴウゴウと鳴り響いています。海上は海上保安庁の船で埋め尽くされて いました。

午前5時半、汀間(ていま)漁港から阻止行動の船を出そう とした時に、海上保安庁は異例の船舶検査などを行ない出航時間を大幅 に遅らせるという手段に出てきました。

午前7時、既に作業が強行されている海に出ると海上保安庁の大型巡視 艇4隻、中型2隻、小型2隻と数えきれないほどのゴ ムボートが襲ってきました。結果として午前中3ヶ所については 作業をさせず、午後もカヌー隊が向かったところでは、作業をやめさせ ることができました。
それでも多くのポイントに調査機器がおろされています。

わたし達は、小さなカヌーにのって6艇ずつが小船に曳かれて一日中走 り回りました。
また、ダイバー達、シュノーケルの人たちも、海底に打たれる杭の切っ 先に手を伏せてギリギリのところで止めるようなシーンもありました。 こちらのダイバーはその度に殴る蹴るの暴行を受けています。
浜に戻ったときは午後5時半でした。10時間以上海上にいたことにな ります。



ところで、わたしは子どもの頃父より「海上保安庁の人間には誇りがあ る、海上自衛隊は人を殺すためにあるが、彼らは人の命を救う仕事をし ているのだから」と聞かされていました。
もちろん、多くの海上保安庁の方々は紳士的でしたが、とても残念な、 酷い行為も今日一日でたくさん目撃しました。

例えば作業船にカヌー隊がしがみついていた時に船がバックを始め、雇 われている漁民は安全を考えてゆっくり引き離そうとしていたようです が、海上保安庁のボートから「もっとスピードを出せ!」と怒鳴られ漁 民の方は仕方なくスピードを上げました。その結果カヌー1艇が 転覆しました。彼らは人の命を守るどころか、危険にさらしたのです。
海上保安庁の職員は、まるで防衛施設局の職員か業者のように漁民に指 示し、危険行為、場合によっては生命の危険にある行為を行うよう命じ ました。

違う場面ではゴムボート2艘でカヌーの隊列を挟み、執拗にカヌーを波 で煽り、転覆させました。これも一つ間違えると波と船体に打ち付けら れ命を奪いかねない行為でした。

また、少なくとも2ヵ所で海上保安庁のゴムボートが、白化現象から漸 く回復しつつある貴重な浜珊瑚に船で激突しました。手前を走る海上保 安庁のゴムボートが積む2機のエンジンがその衝撃で飛び上がるのを目 撃しました。

海底にしがみついて非暴力で阻止行動をしているダイバーに対して、作 業員もしくは海上自衛隊員たちは殴る蹴るの暴行を加えてきましたが、 海上保安庁の隊員は見て見ぬふりです。

しかし国は「反対派」というレッテルを貼り、「妨害行為・暴力行為」 をしているというネガティブキャンペーンを必ず展開するはずです。

作業を強行している業者の人も海上保安庁も、海上自衛隊も防衛「省」 も国もきっと信じられないのだと思います。
金儲けのためでもなく、暴力を振るわれても振るうことなく、他者や自 然の平和を守るために行動する人たちの心を彼らは信じられないのだと 思います。
全て力でねじ伏せることが出来ると思っている人たちは、非暴力で立ち 向かって来る一般市民が心底恐いのだと思います。
人の心を信じ、平和を信じ活動する市民たちがいることを心底否定した いがために暴力を持って望んで来るのだと思います。
平和を創るために体を張っている仲間たちは「暴力を振るう者が一番弱 い」ということを知っているのです。
暴力の弱さを国に伝えるために、愛する日本には暴力に頼る国になって 欲しくないという命をかけた訴えをしているだけなのです。
人間は自分にやましいところがあると他者に対して暴力的になるもので す。海上自衛隊導入は「国の逆切れ」と理解していただいていいと思い ます。

これから国がありとあらゆる方法を用いて「辺野古の阻止行動」に対し て張って来る「ネガティブキャンペーン」「マイナスイメージ宣伝作 戦」に引きずられてはならないと思います。真実を伝えている仲間たち の声を信じてください。国が今回のことで墓穴を掘っていることに気付 くまで、私たちは平和を求めて進むだけです。

辺野古 新基地建設問題

 昨日辺野古へ行ってきた。海上自衛隊を何らかの形で投入してまで基地建設を急ぐ政府に抗議する為です。
 環境アセスメント法があるのに国がそれを無視して法律違反の事前調査なるものを強行しようとしている。アメリカに尽くす為なら憲法をも捻じ曲げる政府だからこの程度は当たり前ということでしょうが、それを認めるわけにはいかない。

 基地建設をするにしても法律に則ってやるべきでしょう。
かつて我が帝国陸軍は竹槍で鬼畜米英に立ち向かえと勇ましかった。海軍はコンクリート製の輸送船を造り、人間魚雷なるもの造った。今回はヤスクニの英霊もビックリの鬼畜米英と手を組んだ帝国海軍の成れの果てと英霊になり損ねたヤカラの子孫との闘いになる。世の中は斯くも違ってしまった、変わらないのは下人民が竹槍で近代軍に立ち向かうという構図だけだ。それにウチナーンチュの置かれた状況だけのようだ。

 今日から強行するというニュースが流れている。でも本日は昼前に約束があるので現地へいけない。
辺野古情報は「きっこの日記」がよく取り上げている。

http://www3.diary.ne.jp/user/338790/

春暁ガス田

 残しておきたい記事なので少し古いがメモしておく、政府発表を鵜呑みにしてはいけないという見本となる。
http://www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_14.html

 たとえば境界線から5キロメートルの話だが、この5キロメートルの意味を考えるには、業界の鉱区割の常識が必要だ。日本や各国の国内法レベルで、A社の鉱区の隣にB社の井戸を掘る場合、境界から何メートル離すことが必要か。答えはわずか100メートルだ。

http://archivelago.blog01.linkclub.jp/index.php?itemid=115776
blog chisso radical

窒素ラヂカルの「正論・暴論」番外編、その他日々の記録

東シナ海ガス田開発問題で世論をミスリードするマスコミ
・・・油田が地下でつながっているからといって、ある国が自国の領土内で油田を掘削するのに、隣国が異議を申し立てられないのと同じである。その異議を申し立てたのは元イラク大統領フセインであった。彼はクウェートの油田は、イラクの油田とつながっているからとクウェートに侵攻した。国際社会はそれを許さなかった。
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専門家の見方を知ることはとても大切なことだ。
中国の味方をするとかではなく、先ほどの選挙で尖閣沖のガス田開発を掲げて立候補した人がいた。政府は開発認可を降ろさないとのこと。この辺りは何があるのか何故政府は開発を渋るのか等を知りたい。

気は焦るが前に進まず

 書きたい事はあるのに筆が前に進まない。アレを書こう、これについて書いておこうと思ってメモだけはしている。しかし肉付けの段階で筆が進まない。これまで遅筆の所為にしてきたがそれだけではない、そのモノゴトに対する自分の意見が薄っぺらで書く内容を持っていないことも大きな要因である。
 それでも書いて残しておきたいことを何とか書いてきたし、これからも書いていくつもりだ。

 さてメモ的にでも残しておきたいことは多々ある。
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2007/05/post_9dcc.html#more

サロン誌はマイク・グラベルの経歴と人間像を以下のように説明している:
一文無しで、無職の彼は幸福だと言う。本人の言葉を借りれば“資産ゼロ”の男だ。上院時代の年金は全て前妻に支払い、彼自身は最近何年も光熱費すら稼いでいない。上院議員の席を奪われて以来、二度の破産を経験した。ひとつは自分の会社、もう一つはつい3年前の自己破産である。それでも彼は気にしていない。彼は“至福を追求せよ”という神話学者ジョセフ・キャンベルの言葉を引用する。グラベル夫妻は経済的には“困窮している”が、本人によれば充分満たされているという。
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まア 、全文を読んで御覧なさい。
ステキなジイサンが今民主党の大統領候補にいるのだ。
願わくばグラベルさんのような年の取り方をしたいものだ。

こどもの日とハーリー(爬竜船)

 明日はこどもの日だ、ということは今日は5月4日ユッカヌヒーである。子供の取ってはオモチャが貰える嬉しい日である。自分の子供の頃を思い出すとユッカヌヒーにブリキで作った飛行機を買ってもらい、泊のジーバーリーを見に行ったことがあった。崇元寺の石門は修復されず黒い扉がついていた。コーラを飲んでゲップして鼻が痛くて泣きそうになった、お祭りの日は楽しかった。

 今ではユッカヌヒーはこどもの日に移ってしまい、ハーリーも那覇ではこどもの日の行事になってしまった。泊のジーバーリーは10月の那覇祭りの出し物になっているようだ。精神的バックボーン無しの観光・商業主義的な行事になってしまった神事が発展するのか少しムヌカンゲーもする。これだけの人出があるのだからどちらにしろ楽しめれば良いかな。

 という話は置いといて、こどもの日にオモチャを買ってもらう子供にとっても楽しい日である事には間違いない。幸いにして私の孫たちは3歳になったばかりなのでこどもの日というのに執着するには未だ至っていない。それに乗じて私は特別にプレゼントをしないツモリだ。
 向こうのお爺ちゃん・お婆ちゃんはきっとおもちゃを買い与えたり食事をしたり若しくは別のサービスをするだろう。孫達には”よかったネ~”と一緒に喜んで済ますつもりだ。年齢的にケチとか誤魔化して・・とか感じることも無いだろう。それに私は常日頃から面倒見ている(つもり)から特別にサービスすることも無かろう。孫たちが気付くようになってから考えよう。

 二組のジジ・ババが私のほかにいる、嫁の実家の方は旅行が好きな方なので孫を連れて行くこともある。仕事の都合で世の中が休みのときにしか休暇が取れないので馬鹿高い時期にも関わらず旅行をする、その時に孫を連れて行く。孫と連れ立っていくのが楽しみなのだろう、私には理解できない。
婿の実家は遊ぶ時間、ゆとりの時間が無いほど仕事熱心なのでお出かけとか一緒に遊ぶというのはやらないようだ。オモチャとか気を引きそうな品々をプレゼントする。これも私には真似が出来ない。愛情表現はいろいろあるので私は私流で行く。

この頃の最大のツールはバイク、ただバイクに乗せるだけで大喜びしている。保育園にバイクで送り迎えする日がたま~にある、その日の喜びようは見ていても気持ちがいい。私としてはこれでカブが上がるなら言う事無しだ。

 こどもの日もバイクに乗せることでやり過ごせそう。来年までこの方法が効き目あるように祈るのみ。
そろそろ4番目の孫が我が家に長期滞在するためにご帰還遊ばされる。新生児は抱くのが怖いので上の子の面倒を見ることにしよう。

マトリョーシカ

 ロシア人形のマトリョーシカが本だの上にある。孫がそれを見つけて遊びたがったので埃を払い入れ子になっているのを取り出そうとした。しかしキツクて上下に外れない、力を込めてムリヤリ外すと中のものは嵌まらないものから外れないもの、上手い具合に組み合わさっているものと様々だ。どちらかといえば粗悪品、不良品の類に属するシロモノである。誰から貰ったのか、あるいは何処で手に入れたのか知らないが商品にしては問題ありの品物である。

 そこでヤスリとサンドペーパーでゴシゴシ削り始めた。凹凸になっているので両方を削ることにした。円形になっているので均一に削るように回しながらペーパーやヤスリをあてて何度も両者を合わせて確かめながら調整した。1個合わせるのに相当な時間を要するが、性急にして縁を欠くと家人の物笑いのタネになるので慎重に事を運ぶ。気分は棗を削りだしている感じで千家十職の宗哲にでもなったつもりだ。(笑)

外側のイチバン大きなものは終り次のものに取り掛かっている、これがヒドイ物で全く噛み合っていない、ただ乗せてあるだけの状態だ。オキナワがいくら湿気が多いとはいえ之ほどではないだろう。マトリョーシカを買うときは最後の一個まで外してから買うべきだ、と思いながら削っている。

 自分で遊ぶわけは無いので外側が上手く合えばそれでいいのだが、孫が遊びたがるので、それでは完璧にしてやろうと思うだけだ。今はその子の母つまり私の娘が出産で病院にいるのでご機嫌取りも兼ねている。
電動のサンダーを使おうかとも考えるが細かい作業なので手仕事が良いだろう。時間はある事だしゆっくり手間暇掛けて少しずつ削ろう。その作業を名目に孫を直接相手しなくても済む。(笑)

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